駒ヶ根橋より木曽駒ケ岳・宝剣岳(標高2,931m)を臨む

 深田久弥による「日本百名山」では木曽駒ケ岳の頁の冒頭で次のように述べています。

 「同じ信州の木曽谷と伊那谷の間を仕切って、延々と連なった山脈、普通これを中央アルプスと呼んでいる。その主稜は、北の茶臼山から南の越百山(こすもやま)までの長い間、2千五百米以下に下ることがない。全くの屏風である。その中の最高峰が駒ケ岳で、それと相対して東の方伊那谷を距てて真向かいにある南アルプスの駒ケ岳と区別するため、前者を木曽駒(西駒)、後者を甲斐駒(東駒)と呼び慣わしている。

 山名の由来に就いては色々の説がある。『続日本紀(しょくにほんぎ)』に「天平十年春正月一日、信濃国神馬ヲ献ズ、黒身白髪尾・・・・・」とあるので、それをもってこの山名の始まりとする説、山麓地方の竜ヶ崎観音、羽広の観音などの病を祈って効験があるので、駒という名を山につけたという説、『新著聞集』の中に、この山に凄い形相の葦毛馬が住んでいると書いてあることから、山名が来たとする説。しかしそれらよりも、岩や残雪によって山肌に駒の形が現れるという説が、一番拡がっているようである。その駒形説にも幾種かあるが、中岳の側面の黒い大岩を駒の胴とし、左上方から右下方に向かって、黒駒の姿が残雪の中に現れるというのが、具体的なだけに一番もっともらしい。

ー中略ー

 駒ケ岳が多くの登山者を見るのは、伊那側にせよ木曽側にせよ、里に近いからでもある。両側とも里のある所は標高六、七百米くらいで、そこから三千米に近い高さまで登るのだから、急なのは当たり前である。  −後略ー」

 私自身もう60年以上も前、戦争中両親の郷里の飯田に疎開していた頃、村の子供会でこの山に登った記憶があります。当時は勿論現在のようなロープウェイもなかった時代なので、国鉄の飯島駅から登山口までバスに乗っただけで、後は頂上まで歩いて登りました。恐らく小学6年生の折だと思われますが、上で深田久弥が述べているような急な山道を日帰りで登って下りて来たのですから、今思うと大したものです。

 そんな訳で、大人になってからJR飯田線や中央高速道で駒ヶ根の辺りを通る度に、もう一度この山に登ってみたいと言う衝動に駆られていました。

 この秋、偶々「いとこ会」が飯田で催された機会を捉えて、帰路に駒ヶ根高原の温泉宿に1泊して念願の木曽駒ヶ岳への再登山を計画しました。

 然しながら、頂上まで登るには時期的に少々遅かったようで、今回の山行はロープウェイで千畳敷まで登り、千畳敷カールと宝剣岳の新雪を鑑賞し、向かい側の南アルプルの山々を臨むだけの結果に終わりました。それでも久し振りの高山の気分を味わえたこと、山麓の見事な紅葉を鑑賞できましたので、大満足でした。