会津駒ケ岳の頂上(標高2,132m)より南南南西の燧ケ岳方面を臨む

 深田久弥による「日本百名山」では会津駒ケ岳の頁の冒頭で次のように述べています。

 「わが国には駒ケ岳という名の山が方々にあるので、登山者は土地の名をその頭に冠して区別している。たとえば、秋田駒、木曽駒、甲斐駒というふうに。会津駒もその一つである。南会津の奥深いところに立っている。

 駒ケ岳の由来は種々である。木曽駒のように、山腹の残雪の一部が馬の形を現すからというのもある。会津駒ケ岳はどうか。『新編会津風土記』には「五峰アリ。東ニ綿延スルコト八里余、残雪駒様ヲナス」とある。駒様ヲ成スだけでは、残雪の一部が駒の形になるのか、残雪の山全体を駒の走る勢いに見たのか、ハッキリしないが、私は後者だと判断する。実際に登ってみてそう感じたのである。

 私が初めてこの山を親しく望んだのは、尾瀬の燧岳の頂上からであった。北にあたって長い山稜を持った山が見える。一頭地を抜いて竣抜な山の形には見えないが、その尾根の長いおだやかな山容が私を魅惑した。そこで私は会津駒ケ岳へ向かった。昭和11年(1936年)6月のことである。

 尾瀬沼から沼山峠を越え桧枝岐へ行って泊まった。近頃の尾瀬はいつも満員で、前約なしでは泊られないほどの盛況だが、30年前はまだ静かな山地で、殆んど登山者の姿を見かけなかった。まして桧枝岐などは、平家の末裔という伝説も信じたくなるほど、僻村の風情を持っていた。  −中略ー

 頂上は、私が今までに得た多くの頂上の中でも、最もすばらしい一つであった。どちらを向いても山ばかり、その山々を名指すことで一時間は素早くすぎた。六月半ばの快晴の日、ただ一人この山に在るという幸福感が私を恍惚とさせた。少し有頂天になりすぎたかもしれない。下山に際していい気持ちで残雪の上を駆け下りて行くうちに、登山道に移る接続点を見失ってしまった。いくら探しても分からない。とうとう私は気を腐らして谷川に下った。そして未知の谷へ軽率に足を入れることが、いかに愚かな所業であるかということを、それからの三時間の悪戦苦闘で思い知った。 −後略ー」

 私自身3,4年前と思っていましたが、とんでもない6年も前の2002年7月下旬、家内と共に燧ケ岳に登って、その頂上から御池に下る途中の道々その前方に深田久弥が正に述べているような山容の穏やかな会津駒ケ岳をずっと見ながら下りて来ました。その晩泊めて頂いた桧枝岐の民宿の奥さんと”今度は会津駒ね”と話し合いました。それからずっと会津駒へ登らなければと気に掛っていましたが何故か実現しませんでした。

 今年、2008年の8月下旬遥か遠方山形の鳥海山登山に向かい、暴風雨の中4合目の大平山荘で足止めを食い、同行のKtさん夫妻と鬱憤やるかたなく今度は何処にしようかとの話が出た折、秋の紅葉の頃に会津駒にしよう、そして桧枝岐の温泉でゆっくり身体を休めようという話になりました。これでやっと6年も前の桧枝岐の民宿の奥さんと交わした約束が果たせるなと思い、ホットした気分になりました。