長谷部信連とはどんな人か?

穴水歴史史料館
穴水町歴史民俗資料館
神社案内板
長谷部神社案内板

長谷部信連とはどんな人

穴水町歴史民俗資料館に保管されている『長家家譜』によれば、長氏の始祖である長谷部信連のぶつらは久安3年(1147)正月16日に遠江国長邑 (静岡県浜松市付近の長村)に生まれ、後に近衛・後白河の両帝に仕えて左兵衛尉さひょうえのじょうに任ぜられたとある。 あの有名な「祇園精舎の鐘の聲」で始まる「平家物語」には後述するように信連の名前は長兵衛尉として盛んに登場し、御所の警備の武士として奮戦したことが述べられています。

平家物語と長谷部信連

信連像

平家物語は平家の栄枯盛衰を描いた軍記物語で、平清盛が太政大臣となり栄華を極めた時から、 平氏一門が壇ノ浦で滅亡するまでの約二十年間を主題とする語り (平曲)をもとにして、本にまとめたものです。その平家物語に信連の名前がしばしば登場します。
先ず、滝口武者として常磐殿に入った強盗を捕らえた功績により左兵衛尉に任ぜられたことが出てきます。
次に、最も有名な事件は平家物語巻四の信連の項に出てきます。
それは治承4年(1180年)に王が源頼政と謀った平氏追討の計画(以仁王の挙兵)が発覚したとき、以仁王を園城寺に逃がし、検非違使の討手に単身で立ち向かった。奮戦する が捕らえられ、六波羅で平宗盛に詰問され屈するところなく、以仁王の行方をもらそうとしなかった。平清盛はその勇烈を賞して、伯耆国日野郡に流したという記述があります。
左の図は穴水町歴史史料館発行の史料冊子の表紙の図をコピーしたもので、この事件の際に以仁王(三条高倉宮:後白河法王第二皇子)を送り出した折の長谷部信連の姿を描いたもののようです。 出典は月岡米次郎作の「浮世絵高倉月」と思われます。

長谷部信連と能登半島との係り

平家滅亡後、鎌倉時代になって源頼朝より平家追討時代の功績を認められて先ず安芸国検非違使所に補され、次いで能登国珠洲郡大家荘(現在の能登半島の輪島市から穴水市一帯の地域)を所領として与えられ、この地域の地頭となったようです。
『吾妻鏡』または『東鑑』(あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した鎌倉幕府の公式歴史書ですが、それに「健保6年10月27日丙寅(中略)今日左兵衛尉長谷部信連法師於能登国大屋庄河原田卒」と記されている。筆者は輪島市山岸町に長谷部信連の墓所を訪ね参拝した折もこの記述を認めました。

長谷部信連と山中温泉との係り

建久年間(1190~1199)、信連は将軍頼朝の命を受けて加賀の逆徒を討ち、その功績により江沼郡塚谷(加賀山中町)を加領された。
出典は判りませんが、山中温泉で発行された同温泉の歴史を記述した小冊子によりますと、「ある日、信連が鷹狩の途中葦の草陰で痛めた足を湯に浸す白鷺に気付き、そっと近づく、 白鷺は美しい乙女に変わり、薬師如来の化身と伝え、その昔行基菩薩の湯ざや建立を信連に語って聞かせ、湯の再興を促しました。信連が湯壺を掘ると薬師像が出てきたので、早速湯ざやを立てて薬師像を安置した」という伝説が残っています。このお蔭で長谷部信連は山中温泉の再興の神様として崇められ、長谷部神社に祭られているということです。今回の筆者の旅は山中温泉に1泊しか出来なかったために、十分な調査は出来ませんでした。白山神社の山下宮司と電話で話した折の説明によりますと、長谷部信連は自分の家来12人を中山温泉再興の為に住まわせたそうですが、その一人の子孫が現在山中温泉で『白鷺湯たわらや』というホテルを経営しておられるということを聞きました。機会がありましたら是非そのホテルの田向社長さんにお話しを伺ってみたいと思っています。

長谷部一族のその後

穴水町歴史民俗資料館に保管されている『長家家譜』によれば、信連の子五人は、それぞれ大屋荘および櫛荘(櫛比荘)内の村地頭となり、かれらの子孫が中世末期には長氏の「家の子」とよばれ、家臣団中では最高の家格を誇ったという。こうして鎌倉時代は大屋荘の中枢地域にあった長谷部氏も、室町時代にいたると大屋荘から影をひそめてしまう。大屋荘における長氏の最後の名残りは、応永二十八年(1421)の11代当主長谷部藤連が足利将軍義持に仕えたといわれている。江戸時代には21代の長連龍が前田利家の重臣となり、更に24代の長尚連が徳川幕府の家老に登りつめ、明治の代には32代の長克連が男爵に叙せられた記録が残っている。現在では34代の長昭連が東京在住ということです。とはいえ、この譜系はあくまで総領によって受け継がれたものであり、枝分かれした系列は何百年の年月を経てどうなっているか全く定かでない。