筆者の旅の行程

平成25年11月10日(日)

編集後記

 この奥の細道紀行は平成23年10月18日に始まり約2年1ヶ月に亘りました。その間、芭蕉に対する見方も、 ウェブ・サイト作成の技術レベルも徐々に変化して来ました。

 先ず、最初の頃は芭蕉は何となく写生の巧みな俳人であるという漠然とした感想を持っていましたが、 越後の出雲崎の辺りを実際に歩き、あの『荒海や』の句を再吟味してみると、この考えが全く間違っていることに気付き始めました。 旅が越後から越前へと進につれて芭蕉の心象描写の凄さを感ずるようになりました。

   荒海や 佐渡によこたふ 天の川
 に始まり
     あかあかと 日はつれなくも 秋の風
 を経て
   塚も動け わが泣く声は 秋の風
 に到っては見事に芭蕉の心に映った情景が表現されていると感じました。

 筆者のこのような見方の変化につれて、筆者自身はこの紀行文はどのように書き進めれば良いのだろうかと 自問するようになりました。そして単なる紀行写真の羅列に終わらないよう、この偉大な奥の細道紀行に相応しいものにする よう努めるようになりました。

 その様な過程の中で、この奥の細道結びの記念館で興味深い体験をしました。 館内では大木学芸員の案内で展示物を観賞して回ったのですが、この方も芭蕉が何の目的でこの奥の細道を書こうとしたかという 疑問を呈していました。そして芭蕉はこの紀行文の出版によって金銭的な目的を果そうとしたのではない証拠事例を挙げ、 一つの大変面白い推察をされていました。芭蕉は故郷伊賀を出て江戸に向い、更に奥の細道という途方もない流浪の旅に出た ことに対して実家の兄上に対して大きな負い目を感じていたという。大木学芸員はこの奥の細道は正に兄上に対する長い間の 負い目に応える集大成だと紹介されておられました。このことはその推察の妥当性はさて置き、筆者が自身の紀行の中で自問 した問題と関連して大いに共鳴をするところです。

 所で、筆者がこの奥の細道紀行文を書いて来たモチベーションに就いてですが、先ず第一に芭蕉の足跡を巡り、 場所場所で詠まれた句をより一層深く観得する為には、単に現地でその情景を感じるだけでなく、その写真や感じた情景を後で 整理する作業を通じてより一層深いものに出来ると思うようになったことです。そして結果として、より的確に整理編集しておけば、 現地で味わった感動を何度も繰り返して味わうことが出来ると思いました。更に、より良いウェブ・サイト作成しようと努力する ことは自身の技術レベルをも少しずつ向上させると考えたことです。

 最後、この2年間のツアーを通じて色々の方と接することが出来たことは筆者の良い経験になりました。 このツアーは単なる物見遊山のものでなく、芭蕉の足跡を辿って何らかのものを得ようという方々が参加されるツアーです。 特に、ご自身で俳句を嗜まれる方が多く参加されておられましたので、俳句の初心者の筆者には大いに刺激となりました。 このことに関して、大垣から名古屋駅に向う帰りのバスの中で驚きの発表がありました。 このツアーに参加されておられた埼玉のSさんがたった先程私達が訪れた『奥の細道結びの記念館』主催の俳句コンテスト に特選として入賞されたと言う事でした。ご本人の承諾を得てここに紹介させて戴きます。

奥の細道結びの記念館俳句コンテストで特選に入賞された埼玉のSさん。

   珈琲の 幽かな香 蔦若葉  博之

  俳句コンテスト特選入賞  

ここで一つ提案があります。
16回もの奥の細道のツアーを通じて折角知り合いなった人たちの間で何とか今後も情報交換等でお付き合いを続けて行く 方法として、当『たそがれ長兵衛』サイトの掲示板を利用されたら如何でしょうか?

『たそがれ長兵衛』サイトの掲示板に投稿するには、各頁の最下段にある『問い合わせやご感想は こちら へ』 の『こちら』をクリックして下さると『みんなの広場』画面が表示されますので、その画面の上段の『新規投稿』 をクリックして下されば、『投稿画面』が現れます。投稿された記事は悪戯投稿を防ぐために小生が見てOKしないと、 『みんなの広場』掲示板には現れないようになっています。

 奥の細道のツアーで知り合った仲間の交流の場を作ってみませんかという呼び掛に早速高橋明さんが 応じて下さって、以下の様な句を投稿して下さいました。

   千年杉 拝みて深し 杉落葉  遊吟坊

   出雲崎 軒連なりて 秋暑し  遊吟坊

そう言えば出雲崎での暑さには参った思い出が蘇えります。
汗かきて バスに逃げ込む 小春日や 長兵衛

下の写真は第12回のツアーで村上の若林邸で奥様が同行3人を撮って下さった写真です。どれが何方か判りますか?
  井筒長谷部高橋
他の皆さんからのこの掲示板へのご投稿大歓迎です。投稿が多くなれば掲示板から抜き出して、編集して特別の 頁を作っても良いと思っています。先ずは この掲示板 を ご覧ください。

実際に奥の細道を巡ってみた現時点で、もう一度この紀行を振り返ってみる意義があると思います。奥の細道の研究者による評論を ここにご紹介いたします。

長浜を発って結びの地大垣までの写真説明

写真をクリックすると、拡大写真が現れ、 「next」ボタンでスライド・ショウにして見ることも出来ます。

長浜八幡宮
長浜八幡宮

平成25年11月10日9時15分 私達は小雨降る中、長浜八幡宮に参拝した。 天正元年(1573年)、豊臣秀吉が湖岸の今浜村附近に城下町造営を計画した際、 予定地内にあった本社を現在地に移転させ、東西2町・南北1町の社地を年貢免除地として保証したとう。

長浜八幡宮の芭蕉句碑
長浜八幡宮の芭蕉句碑

境内にある天満宮の前に元禄4年芭蕉48歳の最後の江戸下向の折、宮崎荊口次男千川宅にて詠んだ句の句碑がある。
 をりをりに 伊吹をみてや 冬籠
この家の主人は、この立派な屋敷から、毎日伊吹の雪を眺めながら冬を越すのですねという千川の豊かな生活ぶりを 褒めた挨拶吟。

姉川の古戦場
姉川の古戦場

この姉川の野村橋付近一帯は小谷城主の浅井長政(1545-73)・越前の朝倉の連合軍約1万8千人と織田・徳川軍約2万8千人が 凄惨な激突を繰り広げ、浅井軍が敗北した古戦場です。

姉川の古戦場の木導の句碑
姉川の古戦場の木導の句碑

木導は禄高百五十石の彦根藩士で晩年芭蕉の門人なった人。芭蕉はこの句を称賛し 褒美に'かげろういさむ花の糸口'という脇句をつけたと伝えられている。因みに、この姉川の河原は麦の名産地であったという。
 春風や 麦の中行く 水の音

観音寺
観音寺

かつて伊吹山の四大寺の一つに数えられた古刹で、鷹狩の途上この寺に立ち寄った秀吉に寺の小僧であった三成が秀吉の 要請で茶を3杯持て成したというエピソードがある寺。本尊は平安時代後期作の木造の千手観音立像。

観音寺の芭蕉句碑
観音寺の芭蕉句碑

山門を入った直ぐ右手に『奥の細道』途上、大垣藩士高岡三郎(俳号斜嶺)亭に招かれての挨拶吟の句碑がある。
 其のままに 月もたのまじ 伊吹山
伊吹山は辺りを圧して屹立している。この山には秋の月も不要なほど毅然とした姿があることよ。

大垣の正覚寺
大垣の正覚寺

大垣市船町7-1の大通りからちょっと引っ込んだ所にある小さなお寺ですが、 入り口に『史跡芭蕉・木因遺跡』の石柱が建っている。境内に芭蕉塚があり、これは芭蕉が元禄七年(1694)難波で客死した折、 その死にを聞いた大垣の俳人達が、いち早くつくったもので、全国で一番古い芭蕉塚である。

正覚寺の芭蕉塚
正覚寺の芭蕉塚

芭蕉塚の周りに弟子の支考、盧元坊、五竹坊などの句碑も建っている。因みに、木因は大垣の廻船問屋の主人で、 北村季吟の門に入り、芭蕉とは同門の友人。貞亨・元禄期の岐阜俳諧の発展の立役者であった。 芭蕉塚は後に、木因の死後芭蕉と木因の親交を偲び、木因碑を建て「芭蕉、木因遺跡」になった。
 あかあかと 日はつれなくも 秋の風

大垣の八幡神社
大垣の八幡神社

応神天皇を主祭神とする大垣市の総鎮守で、水の都に相応しく境内に勢いの強い自噴水がある。 戦国時代の兵火で焼失したが、1647年(正保4年)、大垣城城主、戸田氏鉄が再建する。 この再建を祝って始まった例祭が大垣祭の始まりという。

八幡神社の芭蕉句碑
八幡神社の芭蕉句碑

元禄4年芭蕉48歳の最後の江戸下向の折、宮崎荊口次男千川宅にて詠んだもので、 この家の主人はこの立派な屋敷から、毎日伊吹の雪を眺めながら冬を越すのですね。 千川の豊かな生活ぶりを褒めた挨拶の句。
 折々に 伊吹を見てや 冬ごもり

水門川の橋
水門川の橋

水門川は、1635年(寛永12年)大垣藩主として大垣城に入城した戸田氏鉄により 大垣城の外堀として築かれた木曽川水系の運河で、 大垣城の外堀の役目のみならず揖斐川を介して大垣船町と桑名宿を結ぶ船運の運河の役割を持っていた。


ミニ奥の細道

市内を流れる水門川沿いの「四季の路」を「ミニ奥の細道」として 芭蕉の俳句を 味わいながら散策を楽しむように整備してあります。 八幡神社の角を曲がって最初に現てたのはこの句碑:
 一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月

円通寺
円通寺

大垣藩十万石の菩提寺で、現在の木造本瓦葺の山門は天保年間(1830~44)に再建された豪壮なものです。 裏庭には歴代藩主が眠る戸田家廟所がある。山門を入ると左手に芭蕉と如水の連句碑がある。


円通寺の芭蕉と如水の連句碑

こもり居て 木の実草の実 拾ははや 芭蕉
御影たつねん 松の戸の月  如水
元禄2年9月4日、芭蕉は大垣藩家老戸田権太夫(如水)の下屋敷を訪れ俳諧を楽しんだ。 翌々6日水門川を下って伊勢へ旅立った。

紅葉した濡れ落ち葉
紅葉した濡れ落ち葉

初時雨 旅の結びに ぬれ落ち葉 長兵衛


全昌寺の思い出

庭履きて 出でばや寺に 散る柳
落ち葉踏む 水門川の 流れかな 長兵衛

水門川のに沿って歩く
水門川のに沿って歩く

水門川に沿ってミニ奥の細道を雨の中を更に結びの地を目指して歩く。
 傘の列 時雨の川を 流れゆく 長兵衛


奥の細道結びの地史跡石柱

とうとう高橋橋のたもとで奥の細道の旅は終わることになった。雨の 美濃の国とも蓑ともこれでお別れだ。
初時雨 蓑に別れを 告ぐる時 長兵衛

水門川の船着き場と住吉燈台
水門川の船着き場と住吉燈台

住吉燈台は大垣市船町港水門川の東岸に建造されているるかつての川港の燈台で、 港の標識であると共に、夜間でも船が航行できるように造られたものです。


結びの地の芭蕉銅像

奥の細道の旅を終わり、引き続き伊勢に向かう芭蕉とそれを見送る木因が 広いブロンズ台の上に向かい合って立っている「芭蕉翁と木因翁」。
   蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ

奥の細道むすびの地記念館
奥の細道むすびの地記念館

平成25年11月10日午後4時 私達は遂に奥の細道結びの地記念館に到着した。 館内では大木学芸員の案内で展示物を観賞した。AVシアターで3D映像の奥の細道の紹介映画を見て自分 達の巡って来た旅を懐かしんだ。


木因俳句道標

戦災にあい石が焼けている元の木因俳句道標が記念館の中に展示されている。 これは谷木因作の俳句による道案内の柱です。
  南いせ くわなへ十り ざいごうみち
現在の道標は芭蕉公園の芭蕉銅像の横に建てられている。

素龍清書本(西村本)の表紙
素龍清書本(西村本)の表紙

素龍清書本(西村本)の表紙だけは芭蕉の自筆と言われている。

素龍清書本(西村本)の第一頁
素龍清書本(西村本)の第一頁

芭蕉が元禄7年(1694年)の初夏に、北村季吟の次男正立の門下で能書家の 柏木素龍に書写させた「おくのほそ道」本があり、同書は、一時芭蕉の兄の半左衛門の手に渡ったが、 芭蕉の死後、遺言によって門人の向井去来に贈られた。

                                

筆者の敦賀市内から長浜市内までのまでの見学ルート地図

地図は拡大・縮小出来ます。ドラッグして移動も出来ます。地形図指定で3D表示も出来ます。 赤アイコンは芭蕉の宿泊地です。青線は筆者の辿ったルートです。

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