筆者の旅の行程

平成25年10月20日(日)

山中温泉を発って福井のはずれまでの写真説明

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こうろぎ橋
こうろぎ橋

鶴仙渓の上流に架かる橋で芭蕉はこの地で
 いざり火に かじかや 波の下むせび
と詠んだという。

あやとり橋
あやとり橋

勅使河原宏氏が「鶴仙渓を活ける」というコンセプトのもとでデザインしたユニークなS字型の橋。 この橋の下が芭蕉も訪ねた道明が淵と言うことです。

芭蕉堂
芭蕉堂

明治四十三年(一九一〇年)芭蕉をしたう全国の俳人たちによって芭蕉が大層気に入っていた黒谷橋のふもとに 芭蕉堂が建てられ、中に芭蕉像が安置された。

黒谷橋
黒谷橋

鶴仙渓の下流にあり、奇岩名瀑に風情をそえる辺りに架けられている橋で、 芭蕉もたいそう気に入った場所ともいわれている。欄干には「この川の黒谷橋は絶景の地なり行脚の楽しみここにあり」 の陶板がはめ込まれている。

芭蕉の館
芭蕉の館

芭蕉が泊まった「泉屋」に隣接した老舗旅館「扇屋別荘」を改築したもので、 山中温泉最古の宿屋建築を生かして、芭蕉関連の資料展示や、山中漆器の名品等を展示している。

芭蕉と曽良
芭蕉と曽良

芭蕉の館には芭蕉に関する資料が沢山陳列されているが、その中に蕪村の描いた芭蕉と曽良の絵があった。 桃妖(泉屋の若主人)の句
 紙鳶(たこ) きれて 白根ヶ嶽を 行方かな
の展示もあった。

旅館泉屋跡
旅館泉屋跡

芭蕉が山中温泉で8泊した「泉屋」の跡は共同浴場『菊の湯』の真向かいであった。 主人はまだ14歳の少年久米之助であったが、芭蕉はこの少年に目をかけ、 桃妖という俳号を与えていた。ここで125日もの長い間芭蕉に随行してきた曽良が胃腸病のため伊勢の国に帰ることになり、 悲しい別れがあった。

山中温泉菊の湯
山中温泉菊の湯

芭蕉の逗留中山中温泉に就いて詠んだ句:
   山中や 菊はたをらぬ 湯の匂
の温泉場がこの菊の湯でした。緑瓦の変わり瓦を葺いた天平風(山中温泉が開湯したとされる約1,300年前 は天平時代)の造りで、浴場には、「山中温泉縁起絵巻」から写した昔の湯元風景の九谷焼陶板が掛けられているという。

山中座
山中座

格調高い舞台で演ずる山中節の唄と踊りが観賞できる館。

山中座の内部
山中座の内部

湯上がりに、芸妓連の「山中節四季の舞」が観賞出来ます。 檜舞台で上演される唄と踊りは、お座敷と同じ演目であるという。

丸岡城
丸岡城

現存天守閣では最古の建築様式を持つ平山城で、 戦国時代の天正4年(1576年)一向一揆の備えとして織田信長の命により柴田勝家が甥の勝豊に築かせた城。  「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ」 の本多作左衛門重次が陣中から妻に宛てて 送った手紙の碑でも有名。

芭蕉句碑
芭蕉句碑

丸岡城の裏手の崖の上にひっそりと佇むこの句碑は余り知られていない。元禄2年9月下旬の芭蕉46歳の作。 伊賀越えした山中にて詠み、『猿蓑』 撰集の冒頭句に掲出した句で、初時雨の季語を使った句としても有名であるという。
   初時雨 猿も小蓑を 欲しげなり

永平寺の参道
永平寺の参道

曹洞宗大本山永平寺は、今から約750年前の寛元2年(1244年)、道元禅師によって開創建された出家参禅の道場です。 33万平方メートルにも及ぶ広大な敷地には、山門・仏殿・法堂・僧堂・大庫院・浴室・東司などの 修行の中心となる 「七堂伽藍」 など、70余棟の建物が、樹齢600年を越える老杉の巨木に囲まれながら 静かにたたずんでいます。

 

永平寺の仏殿からの眺め
永平寺の仏殿からの眺め

永平寺仏殿から臨む中庭を通して回廊と山門の屋根。 山門は日本曹洞宗第一道場の勅額が掲げられた中国唐時代の楼閣門で、 永平寺最古の建物で福井県の文化財にもなっています。 各伽藍は長い回廊で結ばれていて屋外に出ないでも渡れます。 仏殿は中国宋時代様式の2重屋根と床は石畳となった美しい伽藍で中央に釈迦尼仏(お釈迦様)が祀られています。

永平寺の大庫院
永平寺の大庫院

1階には食事を作る典座寮と呼ばれる台所があり、玄関の正面には足の速いことで有名な『韋駄天』が祀られ、 名物の『大すりこぎ』が掛っています。

永平寺の長い回廊
永平寺の長い回廊

各伽藍は長い回廊で結ばれていて屋外に出ないでも渡れるようになっています。 回廊の床は修行僧によって磨き浄められていて、斜面を結ぶ回廊は特に滑りやすくなっていました。

松岡の天龍寺
松岡の天龍寺

明暦年間(1655~58)松岡藩主松平昌勝がて創建した福井松平家の菩提寺で、曹洞宗永平寺の末寺。 元禄2年(1689)8月9日(陽暦9月22日)芭蕉は、江戸で深川臨川寺の仏頂和尚を通して 品川天龍寺の住職であったの旧知の大夢和尚を訪ね一泊したのではないかと推察されている。

余波(なごり)の碑
余波(なごり)の碑

金沢から芭蕉に心酔し、随行した北枝だがここ天龍寺で二人は別れることになった。 ここから永平寺を経て福井の町に至るまで、わずか半日ほどが長い長い『奥の細道』の旅のなかで 温海温泉と中村宿の間を除いて芭蕉が一人で移動した区間だと思わている。芭蕉の句碑もある。
物書きて 扇引きさく余波哉(なごりかな )
夏の間使い慣れた扇も捨てる季節になったが、あなたともいよいよ別れる時が来た。 離別の形見に何か書き付けて、扇を二つに引き裂き、名残を惜しむことであるよ。

左内公園内の等哉宅跡
左内公園内の等哉宅跡

芭蕉は福井では旧知の俳人等栽(本名神戸洞哉)の家に2泊している。この家は福井の郊外の足羽山(あすわやま) の麓の左内町にある大変みすぼらしい家であったようだ。芭蕉と等栽はここから敦賀で中秋の名月を見ようと旅立った。

芭蕉句碑
芭蕉句碑

等哉宅で『等哉よ、名月の美しい場所を教えてくれ、そこへ行く旅を一緒にしよう』と詠んだ句。
   名月の 見所問ん 旅寝せむ
実際、芭蕉と等哉は福井から芭蕉と共に旅に出、敦賀まで旅寝を共にしている。

橋本左内の銅像
橋本左内の銅像

橋本左内は福井藩主松平春嶽公の右腕として将軍継嗣問題や外交問題について奔走した幕末の志士。 左内公園の前が善慶寺という橋本家の菩提寺であり、等哉宅はその善慶寺の近くであったと言われていた。

柴田勝家とお市の墓
柴田勝家とお市の墓

偶々左内公園の直ぐ近くに柴田勝家の菩提寺であった西光寺という寺があって、 そこには賤ヶ岳の戦いで敗れたあと、北庄城での自害した柴田勝家とお市の墓があったのでお参りした。

玉江の橋
玉江の橋

藤原俊成の歌に詠まれている橋。
  あさむづの 橋をわたりて 玉江の蘆は      穂に出でにけるかも 俊成  
旧北陸街道の狐川に架かる花堂2丁目の橋が玉の江二の橋で、そのたもとに玉の江の碑がある。



朝六つの橋
朝六つの橋

枕草子に:
  橋は 浅むづの橋 長柄の橋、・・・
と書かれて有名になり、 西行は
  越に来て 富士とやいはん 角原の       文殊かたけの 雪のあけぼの
と詠み、 芭蕉は
  朝六つや 月見の旅の 明けはなれ
と詠んだ。福井市浅水町の県道32号線に架かる橋で、 麻生津郵便局の前にある。

実盛塚
実盛塚

私達は小松空港に帰着する直前に片山津温泉の近く篠原新町の実盛塚に立ち寄った。 倶利伽羅峠での源平合戦の後、この篠原の地に実盛の亡骸が葬られたという。

篠原古戦場の首洗池
篠原古戦場の首洗池

劣勢の平家軍の中で斉藤別当実盛がただひとり一騎踏みとどまってこの篠原古戦場で戦った。 実盛は、老武者とあなどられることを恥とし、白髪を黒く染めて参戦したが、手塚太郎光盛に討ち取られ、 劇的な最後を遂げた。樋口次郎兼光が討ち取った首を池で洗ってみると、黒髪はたちまち白髪に変わった。 実盛は、かつて義仲の父義賢が源義平に討たれた際に、幼い義仲を木曽に逃した恩人だったのである。「源平盛衰記」 午後5:30撮影

安宅関の勧進帳義経像
安宅の関の勧進帳義経像

私達は小松空港に帰着する直前の午後5:40 安宅の関跡に立ち寄った。 残念ながら既に辺りは暗くなっていてまともな写真は撮れなかった。。

安宅の関 勧進帳人形
安宅の関 勧進帳人形

安宅の関跡で勧進帳像を撮影できなかったので、 代わりに小松空港で勧進帳人形の写真を撮った。

山中温泉を発って福井のはずれまでのルート地図

地図は拡大・縮小出来ます。ドラッグして移動も出来ます。地形図指定で3D表示も出来ます。

赤アイコンは芭蕉の宿泊地です。 青線は筆者の辿ったルートです。

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