奥の細道の記述

元禄2年7月15日~8月13日
(新暦8月29日~9月26日)

金沢
卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日なり。
ここに大坂よりかよふ商人 何処(かしよ)といふ者あり。 それが旅宿をともにす。
一笑といふものは、この道にすける名のほのぼの聞えて、世に知る人も侍りしに、 去年(こぞ)の冬、 早世(さうせい)したりとて、その兄追善を催すに、
    塚も動け わが泣く声は 秋の風 
ある草庵にいざなはれて
    秋涼し 手ごとにむけや  瓜茄子(うりなすび)    
途中吟

卯の花山や倶利伽羅が谷を越えて、金沢に着いたのは七月十五日(陽暦八月二十九日)のこと。この地に大坂から通ってくる商人の何処という者がいる。その人が泊まっている宿に同宿した。    一笑という者は、俳諧の道に打ち込んでいるという評判がうすうす聞こえ、世間で知っている人もあったのだが、去年の冬に早世し、その兄が追善供養を催した、その手向けに、
   塚の下に眠る一笑よ、応えておくれ。
  この秋風の吹きすさぶ音こそが、私の悲痛な
  慟哭の声なのだよ。

ある草庵に招かれたときに、
   涼しい秋の草庵で受けるおもてなしの有難い
  ことよ。さあ、固苦しいことは抜きにして、
  めいめいの手で瓜や茄子をむいていただきま
  しょう。    

道すがら詠んだ句、    
  秋の日はもうつれなく赤々と傾いている。心
  寂しい秋風も吹いてきて、とても心細いこと
  よ。 

小松
小松といふ所にて、      
  しをらしき 名や小松吹く 萩すすき    
この(ところ)太田(ただ) の神社に詣づ。
実盛(さねもり)(かぶと)   ・錦の(きれ)あり。 往昔(そのかみ)、源氏に属せし時、 義朝(よしとも)公より賜はらせ給ふとかや。 げにも平士(ひらざむらひ)のものにあらず。 目庇(まびさし)より吹返しまで、 菊唐草(きくからくさ) のほりもの(こがね)をちりばめ、 竜頭(たつがしら)に鍬形打ちたり。 実盛討死の後、木曾義仲願状にそへて、この(やしろ)にこめられ侍るよし、 樋口の次郎が使せし事ども、まのあたり縁起にみえたり。
   むざんやな 甲の下の きりぎりす

小松という所で詠んだ句、    
 何とも可憐な名の小松。その名のとおり、小さ
 い松に風が吹き渡り、萩やススキをなびかせて
 いることだ。
この地にある太田神社に参詣した。ここには斎藤実盛の甲と錦の直垂(ひたたれ)の切れがある。その昔、実盛が源氏に属していた時、 義朝公から賜ったものであるとか。いかにも普通の武士が着けるものではない。目庇から吹返しまで菊唐草模様の彫り物があり、 それに黄金がちりばめられ、竜頭を飾り、鍬形がつけられている。実盛が討死した後、木曾義仲が祈願状にその形見の品を添えて、 この神社に奉納なさったことや、樋口の次郎がその使者となったことなどが、まざまざと見えるように神社の縁起に記されている。
 何とも痛ましいことだ、この甲を戴いて奮戦し
 たであろう実盛だが、今はその下でこおろぎが
 鳴いている。

那 谷
山中の温泉(いでゆ)に行くほど、白根が嶽あとにみなしてあゆむ。 左の山際に観音堂あり。花山の法皇三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、 那谷(なた)と名づけ給ふとなり。 那智(なち)谷汲(たにぐみ)の二字をわかち侍りしとぞ。 奇石さまざまに、古松(こしよう)植ゑならべて、 (かや)ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、 殊勝(しゆしよう)の土地なり。
    石山の 石より白し 秋の風

山中温泉に行く途中、白根が嶽を後ろに見ながら行く。左手の山沿いには観音堂がある。 この寺は、花山法皇が西国三十三か所の巡礼をとげられた後、ここに大慈大悲の像を安置なされて、 那谷寺と名づけられたという。那智と谷汲から二字を分けてお取りになったとか。 珍しい形の石がさまざまにあり、老松が並べて植えられ、萱ぶきの小さなお堂が岩の上に造られていて、 何ともありがたい景色の地である。
  ここの岩山の石は白くさらされて、石山寺の石
  よりも白く、吹く秋風よりもしろじろとした感じがする。

山中
温泉に浴す。其功有明に次と云。   
    山中や菊はたおらぬ湯の匂
あるじとする物は久米之助とていまだ小童也。かれが父誹諧を好み、洛の貞室若輩のむかし爰に来りし比、 風雅に辱しめられて、洛に帰て貞徳の門人となつて世にしらる。功名の後、此一村判詞の料を請ずと云。 今更むかし語とはなりぬ。
曾良は腹を病て、伊勢の国長嶋と云所にゆかりあれば、先立て行に、
   行行てたふれ伏とも萩の原  曾良
と書置たり。
行ものゝ悲しみ残ものゝうらみ隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。予も又
   今日よりや書付消さん笠の露

 

山中温泉に入る。その効用は、有馬温泉に次ぐという。
  山中や 菊はたおらぬ 湯の匂
  菊の露を飲んで七百歳まで生きたという菊児
  童の伝説があるが、ここ山中では菊の力によ
  らずとも、 この湯の香りを吸っていると十分
  に長寿のききめがありそうだ。
主人にあたるものは久米之助といって、いまだ少年である。その父は俳諧をたしなむ人だ。 京都の安原貞室がまだ若い頃、ここに来た時俳諧の席で恥をかいたことがある。 貞室はその経験をばねにして、京都に帰って松永貞徳に入門し、ついには世に知られる立派な俳諧師となった。 名声が上がった後も、貞室は(自分を奮起させてくれたこの地に感謝して)俳諧の添削料を受けなかったという。 こんな話ももう昔のこととなってしまった。

曾良は腹をわずらって、伊勢の長島というところに親戚がいるので、そこを頼って一足先に出発した。
  行行てたふれ伏とも萩の原 曾良   
  このまま行けるところまで行って、最期は萩
  の原で倒れ、旅の途上で死のう。それくらい
  の、旅にかける志である。
行く者の悲しみ、残る者の無念さ、二羽で飛んでいた鳥が離れ離れになって、雲の間に行き先を失うようなものである。 私も句を詠んだ。
  今日よりや書付消さん笠の露
  ずっと旅を続けてきた曾良とはここで別れ、  これからは一人道を行くことになる。 笠に書
  いた「同行二人」の字も消すことにしよう。  笠に掛る露は秋の露か、それとも私の涙か。  

芭蕉の金沢から小松を経て福井までの足取り

 元禄2年7月15日(陽暦8月29日)午後2時頃芭蕉一行は倶利伽羅峠を越えて竹橋、津幡を経て金沢に着いた。 浅野川に架かる中島橋(現在の中島大橋の少し上流にあった)近くの京屋吉兵衛の家に大阪から商用で来ていた何処と落ち合って泊まった。その宿から使いを遣って金沢在住の俳人の竹雀と一笑に来訪を知らせると、 竹雀と牧童(後に芭蕉と旅を共にする北枝の兄)が急いでやって来て、一笑は昨年12月に亡くなったと知らされる。

  翌7月16日に竹雀の営む片町の宮竹屋に移り、24日の朝まで8日間滞在した。 17日には北枝の庵の源意庵に招かれて納涼の句会を開き、その折に詠んだのが
      あかあかと 日は難面(つれな) くも あきの風 

この時曽良は病気で一人宮竹屋に残ったようで、随行日記には多くを語っていない。 20日には犀川の畔にある一泉宅の松幻庵の句会に出席し、その折詠んだのが
      秋涼し 手毎(てごと) にむけや 瓜茄子(うりなすび)  

二十二日、一笑の追善句会が犀川を渡った所にある野町の源念寺で開かれ、一笑の兄のノ松(べつしょう)、句空、秋の坊、 北枝、牧童、小春、一泉など芭蕉とは顔なじみなった地元の俳人達が席に連なり、この席で芭蕉が故一笑に手向けた句が
     塚も動け わが泣く声は 秋の風

元禄2年7月24日(陽暦9月7日)、その日は快晴であった。芭蕉と曽良は9泊にも及んだ金沢を野々市へ向けて出立し、 地元の俳人たちは餅と酒を持参して野々市まで見送って来た。曽良が腹痛で苦しんでいたため、 芭蕉に深く心酔した北枝は福井まで案内に同行することとなった。松任から上柏野、下柏野を通り、 手取川と梯川を渡って小松に着いたのがその日の申の上刻(午後3時半ごろ)で、近江屋という所に泊まった。

小松では元禄2年7月25日(陽暦9月8日) 勧められて建聖寺に移り、 多太(ただ)神社に参拝して実盛の冑や錦を拝見している。 この神社には2日後再度訪れ、
     むざんやな 甲の下の きりぎりす
の句を奉納している。

同じ日 に続いて近くの山王社(本折日吉神社)の神主宅で開かれた句会に出席し
     しほらしき 名や小松吹く 萩すすき
の句を詠んでいる。二十七日(陽暦9月10日)は天気が良かったので、 諏訪神社(菟橋神社)の祭りを見物してから小松を出立している。

山中温泉では芭蕉一行3人は元禄2年7月25日(陽暦9月8日)から泉屋久米之助という家で8泊もしている。 この温泉は行基が発見したという開湯が奈良時代に溯る古い温泉で、胃腸病・神経痛・外傷に薬効があるというので、 曽良の養生には打ってつけの温泉であった。この温泉のことを芭蕉は
     山中や 菊はたおらぬ 湯の匂い
と詠んでいる。 この山中逗留中、北枝は芭蕉との俳諧談義を積極的に行い、このとき聞いた話を後に「山中問答」として出版している。 7月28日には薬師堂その他町を散策したり、29日と30日には道明が淵へ、8月1日には黒谷橋なとを見学 している。そのような中で、曾良は芭蕉と別れて先に旅立つことを決心し、芭蕉に申し出て承諾された。 胃を患った曽良は伊勢の国長島の親戚を頼って一足先に出かけるにあたり
     行き行きて 倒れ伏すとも 萩の花  曽良
と行く者の悲しみを詠んでいる。

元禄2年8月5日(陽暦9月16日)芭蕉と北枝は山中温泉を後にして、那谷寺経由で再度小松に引き返した。 それは予ねて約束していた小松の俳人の万子(ばんし)の俳席に出席するためであった。

曽良は2人と別れて一足先に大聖寺に向った。芭蕉は那谷寺では松の緑の中に峨々と屹立する白い巨岩を見て
     石山の 石より白し 秋の風
と詠んでいる。 奥の細道では那谷寺の段が中山温泉の前に記述されているが、この引き返しのために、実際は那谷寺へは山中温泉の後に訪れている。

元禄2年8月7日(陽暦9月18日)芭蕉と北枝は小松で俳席に出た後、城下町の大聖寺向い、前日曽良も泊まっている全昌寺に泊まった。 芭蕉は曽良が前日書き残した
     よもすがら 秋風聞くや うらの山  曽良
の句を見て、奥の細道に一夜の隔て、千里に同じという寂寥感溢れる文章を綴っている。 全昌寺では芭蕉は若い僧に大もてで、出発間際に草鞋を履いたまま次のような即興の句を彼らに与えている。
     庭履きて 出でばや寺に 散る柳
禅寺に泊まった翌朝はそのお礼に庭を掃くのが習わしになっていることからお礼として詠んだものです。

大聖寺を出て三木・永井を経て吉崎に到った。吉崎は北潟湖と大聖寺川が日本海に流れ出す入江に面し、 嘗て浄土真宗中興の師である蓮如上人が京都の比叡山延暦寺の衆徒の迫害から逃れて本拠を置いた吉崎御坊があった所で、 芭蕉一行はその吉崎から船に乗って西行の歌枕の名所の『汐越の松』を訪ねた。奥の細道には西行の作とされる
 終宵(よもすがら)   あらしに波をはこばせて 月をたれたる 汐越の松 西行
と写し書きして、これで十分で自分は何も書くことはないと言っている。 残念ながら現在この歌は蓮如の作ではないかという説が有力です。

元禄2年8月10日(陽暦9月23日)に芭蕉と北枝は金津と丸岡城下を通り松岡の天龍寺を訪ねたようです。 曽良と別れた後なので正確な日時は判っていないが、この天龍寺の住職の大夢和尚とは深川臨川寺の仏頂和尚の関連で旧知の中であったので、 恐らくここで何泊かしたはずです。ここで金沢から同道してきた北枝と寂しい別れをすることになり
  物書て 扇引さく  余波哉 ( なごりかな )
の句を残し、その句は同寺の『余波の碑』に刻まれている。 夏中手慣れた扇も折から手放す時節になったが、君とも愈々別れねばならない時が来た。別離の形見に各々句を書き付けて、 二つに引き裂き、それぞれに分けて持つことにしよう。
天龍寺からは五十丁(約5.5㎞)山に入りて道元が開いた曹洞宗の総本山である永平寺を芭蕉一人で訪れた。

元禄2年8月11日(陽暦9月24日)芭蕉は一人で永平寺から越坂(恋坂)峠越えで3里の道を福井に向った。 3里ばかりの道のりなので夕飯を食べてからでも大丈夫と高をくくって出たが、夕暮れの暗さに少々手こずったようだ。 福井には旧知の等栽(実名は神戸洞哉)が足羽山の麓の左内町に住んでいた。 かれこれ10年も会っていないので生死が心配であったが、会えることが出来た。 この等栽の古びた住まいの訪れの場面は源氏物語夕顔の巻で光源氏が五条わたりの夕顔の宿を訪れる場面を思せる正に夕顔 の巻のパロディと思われる。等栽宅には2泊してから2人して敦賀で中秋の名月を見ようと旅立った。

芭蕉が等栽と共に福井を出立して敦賀に向ったのは恐らく元禄2年8月13日(陽暦9月26日)の朝だと考えられている。 等栽は「裾おかしゅうからげて」うきうきと道案内に立ったと奥の細道に記されている。先ず蘆と月の名所である玉江を通り、 朝六つの橋を渡り、次のような句を詠んでいる。
  月見せよ 玉江の芦を 刈らぬ先
  朝六ツや 月見の旅の 明けはなれ
そして、名月の前の日7月14日の夕暮れ敦賀の湊に到着した。

金沢から小松や山中温泉を経て福井へのルート地図

地図は拡大・縮小出来ます。ドラッグして移動も出来ます。地形図指定で3D表示も出来ます。

赤線は芭蕉一行が辿ったルートです。 青線は筆者の辿ったルート。

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