奥の細道の記述

元禄2年7月6日~7月15日
    (新暦8月19日~8月28日)

直江津から親不知の期間には奥の細道には記述が一切ない。

今日は親しらず子しらず・犬もどり・駒返しなどいふ北国一の難所を越えて つかれ(はべ)れば、枕引きよせて寝たるに、 一間(ひとつま)隔てて面の(かた )に、若き女の声二人ばかりときこゆ。
年老いたるをのこの声も(まじ)りて物語するをきけば、 越後の国新潟といふ所の遊女なりし。伊勢参宮するとて、この関までをのこの送りて、あすは故郷にかへす文したためて、 はかなき言伝(ことずて)などしやるなり。 白浪(しらなみ)のよする(なぎさ )に身をはふらかし、 あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契り、日々の業因(ごふいん) いかにつたなしと、物いふを聞く聞く寝入りて、あした旅立つに、我々にむかひて、 「行方しらぬ旅路のうさ、あまり覚つかなう悲しく侍れば見えがくれにも御跡をしたひ侍らん。 衣の上の御情(おんなさけ)に、 大慈(だいじ)のめぐみをたれて 結縁(けちえん)せさせ給へ」と涙を落す。 「不便の事には侍れども、我々は所々にてとどまる(かた) おほし。ただ、人の行くにまかせて行くべし。 神明の加護かならず (つつが)なかるべし」といひ捨てて出でつつ、 哀れさしばらくやまざりけらし。 

一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月

  曾良にかたれば書きとどめ侍る。

今日は、親知らず子知らず・犬もどり・駒返しなどという北国一の難所を越えて疲れていたので、 枕を引き寄せて早く寝たところ、ふすま一つ隔てた表のほうの部屋で、若い女の声が二人いるらしく聞こえる。 年取った男の声もまじり、話をしているのを聞けば、女は越後の国の新潟という所の遊女だった。 伊勢参宮をするというので、この市振の関まで男が送ってきて、明日故郷に返す手紙を書いて、 とりとめない伝言を託しているようだ。白波が打ち寄せる海辺の町に遊女として身をさすらえ、 漁師の子のようにひどくこの世に落ちぶれて、客とのはかない契りを重ねる日々を過ごす、 私たちの前世の業はどれほど悪いものであったのかと、話しているのを聞きながら寝入ってしまった。 翌朝、旅立とうとすると、彼女らは我々に向かい、「この先どう行ったらよいか分からない道中の心細さで、 とても不安で悲しうございますので、見え隠れにでもあなた様がたのお後について参りたく思います。 僧衣をつけていらっしゃるお情けとして、どうか仏様のご慈悲をおめぐみ下さり、 仏道への縁を結ばせてくださいませ」と、涙を流して頼む。 「お気の毒ではありますが、私たちはあちこちに留まる所が多い。 ただ同じ方向へ行くたちの後について行きなさい。 伊勢の神様のご加護で、必ず無事にたどり着けるでしょう」と言い捨てて出立したが、 可哀想な気持ちがしばらくおさまらなかったことだ。    
<同じ屋根の下に、はからずも可憐な遊女と浮世離れした僧衣の旅人とが一夜を明かすことになった。 それはあたかも、庭に咲く萩と、はるか離れて照っている月との取り合わせのようだ。>

と詠んで曾良に語れば、曾良はそれを書き留めた。

黒部四十八が瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出づ。 担籠(たご)の藤波は、春ならずとも、 初秋の()ふべきものをと、 人に尋れば、「是より五里、いそ伝ひして、向ふの山陰にいり、 (あま)(とま) ぶきかすかなれば、 蘆の一夜の宿かすものあるまじ」 といひをどされて、加賀の国に入る。
   わせの香や分入右は有磯海(ありそうみ)
卯の花山・倶利伽羅が谷をこえて、金沢は七月中の五日也。

昔から黒部四十八が瀬というのだろうか、数え切れないほどの川を渡って、 那古(なご)という浦に出た。
「担籠(たご)の藤浪」と詠まれる歌枕の地が近いので、春ではないが初秋の雰囲気もまたいいだろう、  訪ねようということで人に道を聞く。 「ここから五里、磯伝いに進み、向こうの山陰に入ったところです。漁師の苫屋もあまり無いところだから、 「葦のかりねの一夜ゆえ」と古歌にあるような、一夜の宿さえ泊めてくれる人はないでしょう」と脅かされて、 加賀の国に入る。
    わせの香や 分入右は 有磯海(ありそうみ)
<北陸の豊かな早稲の香りに包まれて加賀の国に入っていくと、右側には歌枕として知られる有磯海が広がっている。>
卯の花山・くりからが谷を越えて、金沢に着いたのは七月十五日であった。

芭蕉の鉢崎から倶利伽羅峠までの足取り

 元禄2年7月6日(陽暦8月19日)芭蕉一行は昼頃雨が止んだので鉢崎の俵屋を出発した。 黒井までの海岸線は砂地の歩きにくい道で難儀した。今町(直江津の古名)へは関川を船で渡る。 低耳の紹介状を持って関川の河口近くの聴信寺へ行ったが、葬儀の最中であったので迷惑そうな対応を受けたので、 出てきてしまった。

 柏崎の天屋での出来事で芭蕉は嫌気が差していたが、葬儀に参列していた者の中に石川某という 江戸における芭蕉の名声をを知る者がいて、その者の使いが後を追いかけてきてようやく古川市左衛門の家に宿泊すること になった。そのお蔭で柏崎の二の舞えになることなく、その日の歩行は6里半ほどであった。 夜になって聴信寺において句会が開かれ、『文月や六日も常の夜には似ず』の芭蕉の発句が詠まれた。 翌日7月7日も聴信寺、夜には地元の俳人元仙(げんせん)宅で句会が開催され、丁度その日、 旧暦の7月7日に作ったのが『荒海や佐渡に横たふ天河』です。 その翌日は高田の医師細川春庵宅に呼ばれ『薬蘭(やくらん)にいづれの花を草枕』を詠んでいます。 毎日雨が降り続けここに足止めを喰らったようで、更に2日宿泊し、7月11日(陽暦8月25日)ようやく晴れたので、 高田を出発、五智国分寺と居多(こた)神社を参拝し、名立(なだち)に向けて出発し、能生(のう)の玉屋に宿泊した。 何と玉屋という旅館は今も営業している。

 翌日7月12日(陽暦8月26日)快晴になった。能生川、早川及び大和川(海川)を徒歩で渡ったが、 糸魚川の早川の河原で芭蕉が足を滑らして着物を濡らしてしまう。やむなく暫く河原で干し、 乾くのを待ったという話しが曽良随行日記に書かれている。その後、 岩場の難所の駒返しを通り、北陸道最大の難所である断崖絶壁の下の海岸を歩き、漸く市振りに到着した。宿泊は名主の 桔梗屋だと言われているが、奥の細道では越後の国の新潟という所の遊女と一つ宿に泊まったという有名な創作になっている。 芭蕉は『曾良にかたれば書きとどめ侍る。』と述べているが、曽良随行日記にはそのことは何も触れられていない。

 翌日7月13日(陽暦8月27日)市振りを出発した。黒部の川を幾つも渡り、その日は約10里歩き、 滑川で泊まった。滑川での宿舎は俳人川瀬知十の生家・河瀬屋だと推定されている。 知十は明和元年(1764)徳城寺に芭蕉の句碑を建てている。

 7月14日(陽暦8月28日)滑川を出発し、この日も常願寺川や神通川などを船で渡り、 那古(放生津)の浦も船で渡り、疲労困憊の上、高岡に到着して宿泊した。高岡の手前には大伴家持の歌枕で有名な 担籠(たこ)に行こうとしたが、そこまでは5里もあり、泊まる家もあるまいと言われて諦めている。担籠に行く前に、 大伴家持の住居跡や義経ゆかりの雨晴(あまはらし)海岸があったのだが、これも連日の蒸し暑さのためかなり疲労していて 断念している。歌枕を求めてきた芭蕉にとってはさぞ残念であったと思われる。 因みに、万葉歌人として有名な大伴家持は天平18年から天平勝宝3年(751)までの5年間、越中国に国守として在任し、 この高岡伏木の勝興寺に居住しており、当地で数々の歌を詠んでいます。更に奥の細道の関連としては、 人生の最期を芭蕉も訪れている多賀城で終えています。 また、雨晴海岸とは富山県高岡と氷見の境にある海岸景勝地で源義経が奥州落ちのときににわか雨にあい、 この地で晴れるのを待ったという伝説が地名「雨晴(あまはらし)」の由来といわれる。 能登半島国定公園に属し、富山湾越しに3000m級の立山連峰の雄大な姿が望める。下の写真は冬季に撮られた雨晴海岸の写真です。

  雨晴海岸

 7月15日(陽暦8月29日)高岡を発って小矢部川に沿って今石動(いまいするぎ)に向い、 木曽義仲が平家追討の願文を納めた埴生八幡宮に参拝した。その後、疲労が極に達していたが、義仲びいきの芭蕉 は矢立堂、猿ヶ馬場等の倶利伽羅峠を越えて、竹橋・津幡と通り知人たちの待つ金沢に着いたのは7月15日 (陽暦8月29日)午後2時頃であった。

針崎から直江津や市振を経て倶利伽羅峠へのルート地図

地図は拡大・縮小出来ます。ドラッグして移動も出来ます。地形図指定で3D表示も出来ます。

赤線は芭蕉一行が辿ったルートです。 青線は筆者の辿ったルート。

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