芭蕉の旅の行程

芭蕉のイラスト





元禄2年7月3日~7月5日
    (新暦8月17日~8月19日)

この期間奥の細道には記述が一切ない。従って、その代わりに出雲崎の芭蕉公園に建つ「 銀河の序」文学碑の原文を以下に載せます。

ゑちごの驛 出雲崎といふ處より、佐渡が島は海上十八里とかや
谷嶺の嶮難くまなく、東西三十余里に横折れ伏して、まだ初秋の薄霧の立もあへず、波の音さすがに高からざれば、ただ手のとゝく計になむ見わたさる
げにや此島は黄金あまたわき出て、世にめでたき島になむ侍るを、昔今に到りて大罪朝敵の人々遠流の境にして、物憂き島の名に立なむ侍れはいと冷(すさま)じき心地せらるゝに、宵の月入かゝるころ、山の形雲透きに見えて、海の面(おもて)ほの暗く、波の音いとど悲しく聞こえ侍るに  芭蕉
  荒海や 佐渡によこたふ 天の河

越後の国出雲崎といふ所より、佐渡ヶ島は海を隔てて十八里のかなたに、峯や谷が連なり東西三十五里にわたり横たわっている。波の音が高くないので初秋の薄霧の中に手に取るように鮮やかに見渡せる。
成程、この島はは金が多く産出され、限りなき目出度い島でありますが、昔から大罪朝敵の人々が流罪になっている恐ろしい所なので、宵になって月が沈む頃になると、山の陰が雲に透けて見え、海の面がうす暗くなり、波の音を聞いていると、流罪になっている人々の心を思い、悲愁断腸の情がこみあげてくる。

  あら海や 佐渡に横たふ あまの河

筆者の旅の行程

私の顔





平成25年8月20日(火):

平成25年8月21日(水):

芭蕉の足跡を辿って長兵衛が詠める

  青柿や 実りの色の 秋想う

 

  汗ふきて 目を凝らせども 霞む海

 

  夏の旅 島かげ見えず 出雲崎

 

  歩ききて 冷やし麦茶の ありがたさ

 

  夏草や 獄門石の ざわめきが

 

  夏峠 登り下りて 針崎(はっさき)

 今回の旅に就いての筆者の感想

越後の旅に就いては芭蕉は有名な2句のみを載せるだけで、文章の記述が殆どありません。 恐らくこの9日間の道中は暑さと雨との苦労に精気を疲れさせて筆を執る気にもなれなかったと思われる。
一方、その芭蕉の足跡を辿って何がしかの文章と写真を組み合わせたウェブ・ページを作ろうと思っている筆者にとっては、飛び切り印象深い写真も撮ることが出来ませんでした。
期待していたことは、「荒海や 佐渡に・・・」の名句にマッチした写真を撮って、ページの見出しを飾りたいと思っていましたが、実際に佐渡ヶ島を臨める場所を歩いてみると、あの名句の情景は物理的に望みえないことが判ってきました。まさにこれは写生の句ではありえない。
とは言っても、この名句の調べは何としても豪壮雄渾にして、その中に悲哀の情が込められています。
このことは、出雲崎の芭蕉公園にある「銀河の序」碑を読むと納得することが出来ました。
芭蕉は恐らくこの佐渡ヶ島に近い日本海の沿岸の悪路を歩きながらずっと島流しにあった数々の人々の悲哀を想い続けて居たに違いない。 その情念の発露があの一句であると思われます。

新潟から出雲崎を経て柏崎までの写真説明

写真をクリックすると、拡大写真が現れ、「next」ボタンでスライド・ショウにして見ることも出来ます。

船江大神宮
船江大神宮

この神社は古町通りのすぐの路地の奥にあり、延喜式にも記載がある古社だそうです。 地図などには「神明宮」と記載されていることが多い。

芭蕉句碑
芭蕉句碑

本殿のの手前左に
   海に降る 雨や恋しき うき身宿
の句碑がある。新潟の街に到着した折、宿を取るのに苦労し、大工源七の家でやっと落ち着くことが出来て、この句を詠んだ。

宗現寺本堂
宗現寺本堂

西堀通り七丁目の曹洞宗のお寺で、当地で芭蕉が古き蓑を脱ぎ捨てて新しいものに変えたことを 後世地元の俳人が偲んで建てた蓑塚がある。

芭蕉の蓑塚
芭蕉の蓑塚

本堂右側の植え込みの中に自然石で「芭蕉翁蓑塚」と刻まれた石碑がある。 碑陰には「文政十年十月十二日批杷堂」とあり、4名の俳名が連刻してある。

護国神社
護国神社

新潟市内の海岸沿いの寄居浜にある戊辰戦争以来の戦死者を祀る神社。謂わば新潟版靖国神社。

護国神社境内の芭蕉堂
護国神社境内の芭蕉堂

堂の中には芭蕉の肖像画と由来書がコンクリート詰めにして永久保存されている。

芭蕉蓑塚
芭蕉蓑塚

芭蕉堂の近くの林の中に蓑塚が建てられていた。

北原白秋の砂の山歌碑
北原白秋の砂の山歌碑

1922年この寄居浜で作詩されたこの童謡「砂山」の歌碑が建てられている。

佐潟と角田山
佐潟と角田山

この湖は日本でも最大級の湧水の砂丘湖で冬には白鳥の飛来地になっているという。

佐潟湖畔の芭蕉句碑
佐潟湖畔の芭蕉句碑

この句は金沢辺りで詠まれたものらしい。
 あかあかと 日はつれなくも 秋の風

赤塚の道標
赤塚(佐潟湖畔)の道標

北国街道には弥彦神社へのお参りの人のために部落ごとにこのような道しるべが設けられていた。

松野尾の芭蕉句碑
松野尾の芭蕉句碑

  涼しさや すぐに野松の 枝になり



弘法清水
弘法清水

当地竹野町に弘法大師が立ち寄ったおり、良民の快い施しを受けたお礼にと、手にしていた錫杖を土に指し、 これを抜くと水が湧き出て町民の窮状を救ったと伝えられている。

竹野の柿畠
竹野の柿畠

角田山の麓の竹野町には一面に柿畑が広がっていた。
青柿や 実りの色の 秋想う 長兵衛



ごりん石
ごりん石

北国街道が角田山に突き当る登山口に大石があり、芭蕉の句が刻まれていた。
  涼しさや すぐに野松の 枝のなり

角田山麓の北国街道を歩く
角田山麓の北国街道を歩く

やっと雨が上がった気持ちのよい北国街道を歩く。

新潟ゴルフ倶楽部
新潟ゴルフ倶楽部

角田山のすそ野を回り込むとゴルフ場に出て前方に形の整った弥彦山が見えてきた。

ゴルフ場の中を通る北国街道
ゴルフ場の中を通る北国街道

北国街道は何とゴルフ場の中を通っている。

弥彦神社の大鳥居
弥彦神社の大鳥居

曽良随行日記には「三日 快晴。 新潟を立。 馬高ク、無用之由、源七指図ニテ歩行ス。  申ノ下刻、弥彦ニ着ス。 宿取テ、明神へ参詣。」とある。

弥彦神社の本殿
弥彦神社の本殿

この神社は越後の国の一の宮として平安時代の昔から人々の信仰を集めて来ました。 御神体は本殿背後に聳える弥彦山ということです。

 

岩室温泉ホテル富士屋
岩室温泉ホテル富士屋

私達は弥彦神社から北国街道をバスで10分程戻り、午後4時半に宿泊宿の岩室温泉ホテル富士屋に到着した。

 

ホテルの夕食
ホテルの夕食

源泉掛け流しの緑色の温泉で汗を流した後、写真のような豪華な夕食となった。 米どころ酒どころの美酒に酔いしれた方も多かった。

宝光寺本堂
宝光寺本堂

弥彦神社の手前にある真言宗のお寺で、源頼朝の命により開かれたとされている。 境内に芭蕉の句碑があり、裏山に樹齢1000年の婆々杉がある。

 
 

芭蕉の荒海やの句碑
芭蕉の荒海やの句碑


  荒海や 佐渡に横たふ 天の河
がある。


宝光寺の婆々杉
宝光寺の婆々杉

樹齢1000年とされる見事な大杉である。
宝光寺
参拝の後、弥彦山の西麓を廻って日本海側の弥彦山中腹にある西生寺に向った。 曽良随行日記には「四日 快晴。 風、三日同風也。 辰ノ上刻、弥彦ヲ立。  弘智法印像為拝。峠ヨリ右ヘ半道計行。」とある。

 
 

西生寺正面より
西生寺正面より

  

奈良時代に行基により創建されたと伝えられる越後屈指の古刹で、 日本最古の即身仏が安置されている弘智堂があることでも有名で、 芭蕉もこのことを既に知っていて立ち寄ったと思われる。


芭蕉来詣句碑
芭蕉来詣句碑

芭蕉が訪れて芭蕉が読んだ?句碑。芭蕉の句とは断定されていないそうです。

 文月や からさけおがむ のずみ山

 
 

西生寺展望台より臨む日本海
西生寺展望台より臨む日本海

  

気象状況が良ければここから芭蕉が「荒海や」と詠んだ佐渡ヶ島が臨める筈であるが、残念ながら見えなかった。

 

寺泊聚感園
寺泊聚感園

寺泊の旧五十嵐邸跡に作られた公園で、 宮廷歌人藤原為兼と初君の相聞歌碑や義経と弁慶に纏わる史跡がある。

 
 

藤原為兼と初君の相聞歌碑
藤原為兼と初君の相聞歌碑

  

宮廷歌人藤原為兼が佐渡に遠島になる前に7日間船待ちのために五十嵐邸に留め置かれた間の遊女初君との相聞の歌。

日蓮上人硯水聖泉公園
日蓮上人硯水聖泉公園

 

日蓮硯水聖泉公園内の芭蕉句碑
日蓮硯水聖泉公園内の芭蕉句碑 

 

寺泊水産商店街
寺泊水産商店街

寺泊の水産商店街の「山六水産」で買い物をし、2階の食堂で昼食を摂った。


 
 

出雲崎の良寛堂
出雲崎の良寛堂

  

ここは出雲崎の名主・橘屋の長男として生まれた良寛の生地屋敷跡で、 佐渡を見つめる良寛の銅像と良寛の資料を納めた良寛堂が建っている。

旅籠・大崎屋跡
旅籠・大崎屋跡

芭蕉主従は出雲崎の大崎屋で泊まったらしいが、その確証はない。 向かい側には芭蕉園という小公園が作られている。

 

芭蕉像と筆者
芭蕉像と筆者

出雲崎の敦賀屋跡に芭蕉園という小公園が作られており、そこに芭蕉像が建てられている。

銀河の序石碑
銀河の序石碑

許六が編集した『本朝文選』の巻五には芭蕉の書いた「銀河の序」という序文があり、 芭蕉がいかに出雲崎に深い感懐をいだいたかがわかり、そして「あら海や」の句にどのような意図が籠められて いるかがわかる。

 

銀河の序の写し
銀河の序の写し

出雲崎の芭蕉園の芭蕉像の左側に銀河の序の石碑が建てられており、 その横の説明板にその内容が記されている。

 

 

妙福寺への急な石段
妙福寺への急な石段

街道から急な階段を登った妙福寺には「俳諧伝燈塚」 という芭蕉と蕉門2世代目の項東華坊(各務支考),3世代目の廬元坊の3人が、 それぞれ出雲崎で読んだ句を刻した碑がある。
最初の句碑は宝暦5年(1755)に建てられたが磨耗したため新しい石碑が大正年間に再建され、 現在は二つの句碑が並んで建っている。

 

「俳諧伝燈塚」石碑
「俳諧伝燈塚」石碑

 五月雨の 夕日や見せて 出雲崎                 東華坊

 荒海や 佐渡に横たふ 天の川                     芭蕉翁

 雪に波の 花やさそうて 出雲崎                     盧元坊



獄門跡
獄門跡

出雲崎の北国街道妻入りの街並の最後に嘗ての極悪人の処刑場跡があった。

 

椎谷観音堂入口の芭蕉句碑
椎谷観音堂入口の芭蕉句碑


  草臥れて 宿かるころや 藤の花

 

 

柏崎苅羽原子力発電所
柏崎苅羽原子力発電所

椎谷観音堂入口から臨む苅羽原子力発電所。原子力発電所は広大な松林に囲まれているが、人家はそう遠くないようだ。

 

柏崎で宿泊予定であった天屋旅籠跡
柏崎で宿泊予定であった天屋旅籠跡

低耳の紹介で泊まる筈であったが、物乞いの行脚僧と思われたか 対応が粗略であったために、芭蕉は不快に思い小雨の中飛び出して更に4里鉢崎まで歩いたという。

米山大橋
米山大橋

青海川の谷を跨いで架かる大橋。昔の北国街道はこの谷を大きく下り登りしたというが、 昭和40年当時の首相田中角栄の意向でこの大橋が架けられたという。

 

鉢崎連光院
鉢崎連光院

 バスが国道8号線の米山トンネルを出た直後の谷間にある寺院で、 境内に信越線開通のために爆破された地蔵尊を祭った鉢崎地蔵尊があった。

 

鉢崎関所跡
鉢崎関所跡

北国街道の米山峠を越えた所にあるこの関所は長慶2年上杉家によって設けられ、 江戸時代になって越後頸城地方の三関(関川、鉢崎、市振)の一つとして重要な拠点となっていたという。

 

旅籠俵屋跡
旅籠俵屋跡

芭蕉一行は出雲崎から11里(44㎞)の難路を石地、椎谷、宮川、柏崎、鯨波と小雨の中をこの俵屋まで歩いて一泊した。

山寺から大石田を経て羽黒山へのルート地図

地図は拡大・縮小出来ます。ドラッグして移動も出来ます。地形図指定で3D表示も出来ます。

赤線は芭蕉一行が辿ったルートです。 青線は筆者の辿ったルート。

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