芭蕉の旅の行程

芭蕉のイラスト





元禄2年6月15日~6月25日
    (新暦7月30日~8月9日)

 江山水陸の風光、数を尽して、今 象潟(きさかた)方寸(はうすん)()む。 酒田の湊より東北の方、山を越え磯を伝ひ、いさごをふみて、その際十里、日影ややかたぶくころ、汐風真砂( まさご)を吹き上げ、雨 朦朧(もうろう)として鳥海の山かくる。 闇中(あんちゆう)に模索して、雨もまた奇なりとせば、雨後の 晴色 (せいしよく)また頼もしきと、(あま)苫屋(とまや)に膝をいれて雨の晴るるを待つ。

その(あした)、天よくはれて、朝日はなやかにさし出づるほどに、 象潟に舟をうかぶ。 先づ能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上にこぐ」とよまれし桜の老木 (おいき)、西行法師の記念(かたみ)をのこす。 江上に御陵(みささぎ)あり、神巧后宮(しんぐうこうぐう )の御墓といふ。寺を御陵干満珠寺(かんまんじゆじ)といふ。 この処に行幸ありし事いまだ聞かず。いかなる事にや。この寺の方丈に坐して(すだれ)()けば、風景一眼の中に尽きて、南に鳥海天をささへ、その影うつりて江にあり。 西はむやむやの関 路(みち)をかぎり、東に堤を築きて秋田にかよふ道遥かに、 海北にかまへて浪うち入るる所を汐ごしといふ。江の縦横一里ばかり、(おもかげ) 松島にかよひてまた異なり。松島は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはへて、地勢( ちせい)魂をなやますに似たり。

 象潟や 雨に西施が ねぶの花
 汐越や 鶴はぎぬれて 海涼し
 象潟や 料理何くふ 神祭  曾良
 蜑の家や 戸板を敷きて 夕涼み
         みのの国の商人 低耳
    岩上にみさごの巣をみる
 波こえぬ 契ありてや みさごの巣 曾良

 川や山、海や陸の美しい風景を数限りなく見てきて、今は象潟へと心がせきたてられる。
 酒田の港から東北の方へ、山を越え海辺を伝い、砂路を歩いて、その間十里、日差しがようやく西に傾くころに着いた。
 潮風が砂を吹き上げ、雨でぼうっとけむり、鳥海山も隠れてしまった。暗い中を手探りするようで、雨もまた風変わりでおもしろいと思えば、雨上がりの晴れた景色も期待が大きいと、漁師の苫ぶきの小屋に入り込んで、雨が晴れるのを待った。

  その翌朝、空はよく晴れて、朝日がきらきらとさし昇るるころに、象潟に舟を浮かべた。まず能因島に舟を寄せて、能因法師が三年間しずかに住んでいた跡を訪ね、その向こう岸に上がると、「花の上を漕ぐ」と歌に詠まれた桜の老木があり、今もなお西行法師の記念を残している。入江のほとりに御陵があり、神功皇后のお墓だという。この寺を干満珠寺という。しかし、皇后がこの地に御幸されたとは聞いたことがない。どうしたわけだろう。この寺の部屋に座って、簾を上げて眺めると、風景は一望に見渡され、南には鳥海山が天を支え、その山影が入江の水面にくっきりと映っている。西にはむやむやの関が道をさえぎり、東には堤を築いて秋田に通じる道が遥かに伸び、北には日本海がどっかりとひかえ、その波が打ち寄せる所を汐越と呼んでいる。入江の縦横は一里ばかりで、その姿は松島に似ているようで、また異なった感じである。松島は明るく笑っているようであり、象潟は何か恨んでいるようである。寂しさに悲しみが加わって、土地のようすは、美人が心を悩ましているような風情がある。

 <雨にけむる象潟にねむの花が咲いている。それはまるで薄幸の美女・西施が悩ましく目を閉じているかのようだ。>

 <汐越に下り立った鶴の足元に、波が寄せて足を濡らしている。いかにも涼しげな海の光景である。>

 <象潟は折りしも熊野権現のお祭だ。こんな海辺の田舎ではどんな料理を食べるのだろう。>

 <漁師の家々では、夕方になると雨戸を持ち出し、それに腰を下ろして夕涼みをする。>

  岩上にみさごの巣があるのを見て、
<波も越えられないほどに、磐石な契りを交わして岩上につくったのであろうか、あのみさごの巣は。>

筆者の旅の行程

私の顔





平成25年7月7日(日)

平成25年7月8日(月)

芭蕉の足跡を辿って長兵衛が詠める

  鶴岡は 茄子(なすび)の色や (ひる)の市

 

  記念館 海坂藩は 冷えた部屋

 

  羅漢らは 背に夕日あび 初夏の海

 

  象潟や 豪雨に濡れし ねむの花

 

  蚶満寺 岸より眺む 稲の(うみ)

 

  梅雨末期 求めし山は 雲の中

 

  翁とも 同じ豪雨や 三崎道

 

  梅雨晴れて 海に突き出す 峠かな

 

  歴史をば 見つめて静か 初夏の海

 

  県境を またいで拭う (かお)の汗

 

  梅雨の汗 流して涼し 檜風呂

 

鶴岡から象潟を経て瀬波までの写真説明

写真をクリックすると、拡大写真が現れ、「next」ボタンでスライド・ショウにして見ることも出来ます。

酒井氏庭園
致道博物館敷地内の酒井氏庭園

致道博物館は鶴ヶ城三の丸跡地に建てられた博物館で、旧庄内藩の藩校「致道館」に由来し、 同藩内で使われた民族資料が展示され、また歴史的建物なども移築されている。

芭蕉句碑
酒井氏庭園内の芭蕉句碑

芭蕉が長山重行宅の句会で詠んだ発句。
 めづらしや 山をいで羽の 初茄子
この句は長山重行の歓待に対するお礼の言葉のようです。

旧西田川郡役所
旧西田川郡役所

明治14年(1881)に建てられた擬洋風建築で、明治天皇の東北御巡幸の折に行在所となった由緒ある建物。

旧渋谷家住宅
旧渋谷家住宅

湯殿山の山麓から移築された山村豪雪地域の多層民家。茅葺の家の中には当時使われていた道具類が展示されている。

鶴岡城二の丸
鶴岡城二の丸

庄内藩の城跡が今は鶴岡公園になっており大変美しいお堀に囲まれている。
庄内藩は徳川四天王の一人酒井忠次を祖としその後三代忠勝が元和8年(1622) 信州松代から14万石で移封となってから明治まで
酒井氏が治めていた。 明治の戊辰戦争では会津方に付き新政府軍と戦って破れた。

藤沢周平記念館
藤沢周平記念館

藤沢周平記念館は大変美しい鶴岡公園の中にあった。
小生の「たそがれ長兵衛」のハンドル名はこの作家の「たそがれ清兵衛」にあやかって頂いた名前なので、 大変興味深く展示資料を見学した。展示資料は写真撮影が禁止されていたので残念ながらここには掲載出来ません。

長山重行邸跡
長山重行邸跡

芭蕉は鶴岡ではここに3泊し、最初の晩の句会で詠んだ発句の句碑が建っていた。
 めづらしや 山をいで羽の 初茄子  

日枝神社
日枝神社の鳥居

長山重行邸の小路から大通りに出た所に日枝神社の鳥居が見えていた。 境内弁天島には、芭蕉の「初なすび」の句碑、樹齢300年の天然記念物大ケヤキがありました。

芭蕉句碑
芭蕉句碑

日枝神社の境内の弁天島に「めずらしや 山を・・・」の句碑があった。

内川の乗船地跡
内川の乗船地跡

6月13日芭蕉一行はここから川舟で内川と赤川を下って酒田の日和山公園の付近に上陸したと伝えられている。

十六羅漢岩
十六羅漢岩

酒田から象潟に向う途中の海岸の十六羅漢岩に立ち寄った。吹浦海禅寺21代寛海和尚が、 日本海の荒波で命を失った漁師諸霊の供養と海上安全を願って、1864年に造佛を発願し、 地元の石工たちを指揮、5年の年月をかけて明治元年22体の磨崖仏を完工したということです。

六羅漢岩
羅漢岩のズーミング

16の羅漢に釈迦牟尼、文殊菩薩、普賢の両菩薩、観音、舎利仏、目蓮の三像を合わせて22体。 これだけの規模で岩礁に刻まれているのは日本海側ではここだけといわれ、歴史的にも貴重な資源ということです。


芭蕉句碑
芭蕉句碑

十六羅漢岩近くの展望台に芭蕉句碑が建てられていた。
あつみ山や 吹浦かけて 夕涼み

出羽二見
出羽二見

十六羅漢岩の南側磯場にある出羽二見は、自然が造り出した芸術的景観で、 対をなすその姿から夫婦岩とも呼ばれ、夕日を眺める名所であるという。

ホテル・エクセルに到着
ホテル・エクセルに到着

17:45バスは象潟を通り越して仁賀保のホテル・エクセル・キクスイに到着した。

夕食の膳
夕食の膳

ホテル・エクセル・キクスイはビジネス・ホテルながら夕食の膳は中々洒落たものが提供された。

蚶満寺の芭蕉像
蚶満寺の芭蕉像

蚶満寺の駐車場から左側を入った所に芭蕉像が建っていた。向かい側には芭蕉が句で詠んだ中国の美人西施の像が建っていた。


西施の石像
西施の石像

西施は中国周の時代の美女で、薄幸の美女の代表と言われていることから、 雨に濡れている象潟のねむの花が憂いに満ちた西施のようだと芭蕉は詠んだのでした。

蚶満寺の山門
蚶満寺の山門

延暦年間(782~806)比叡山延暦寺の円仁によって開山されたという古いお寺で最初は蚶方(きさかた) にある寺と言われたが、時代と共に読み替えられ現在の名前になったという。

蚶満寺の本堂
蚶満寺の本堂

芭蕉は奥の細道で、
この寺の方丈に坐して簾を捲けば、風景一眼の中に尽きて、南に鳥海天をささへ、 その影うつりて江にあり。
と書いていますが、この本堂の裏側の簾をあげて眺めたということです。

船つなぎの石
船着き場の船つなぎの石

文化元年(1804)の鳥海山の噴火による大地震でこの辺りの陸地が隆起する前は、この蚶満寺も入江の中の島にあった。 その為にこの寺に参拝するにはこの船着き場まで船で来なければならなかったという。

西行法師の歌桜の跡
西行法師の歌桜の跡

  象潟の 桜はなみに埋もれて 花の  上こぐ あまの釣り船
という歌で西行の歌桜だという伝説が残っているが、この歌は「山家集」にも残っていないのでこの真偽は確かではないという。

芭蕉の句碑
芭蕉の句碑

芭蕉は元禄2年6月16日当地に到り
  象潟や 雨に西施が ねむの花
の句を残している。

象潟の全景
象潟の全景

象潟道の駅の6階展望台から俯瞰した象潟の九十九島を偲ばせる風景。 残念ながら鳥海山は雲に隠れて見えない。

象潟の海岸風景
象潟の海岸風景

道の駅から俯瞰した秋田方面の海岸風景。


芭蕉が2泊した能登屋跡
芭蕉が1泊した能登屋跡

芭蕉が雨の中到着した日は熊野権現の祭りの日で先客があり泊まれずに、最初の夜は向屋に借りて泊まった。

 

象潟滞在中の行動の説明板
象潟滞在中の行動の説明板

芭蕉の象潟滞在中の行動が判り易く説明されている。

 

今野嘉兵衛宅跡
今野嘉兵衛宅跡

象潟滞在中に色々と芭蕉の世話をした人物。

当時の欄干橋(現在の象潟橋)
当時の欄干橋(現在の象潟橋)

曽良随行日記によると象潟滞在3日目に快晴となり、朝橋まで行くとあるのはこの欄干橋とのこと。 この橋から鳥海山がはっきり臨めたとあるが、私達が行った折には小雨模様で残念ながら山は雲に覆われて見えず。

船つなぎ石
船つなぎ石

象潟滞在2日目に芭蕉は午前中に船で蚶満寺に渡り、夕方今野嘉兵衛のもてなしで潟の遊覧に出ているが、 船はこの船着き場から出たと思われる。

能因島
能因島

平安中期三十六歌仙の一人である能因法師が三年間幽居したと言われる島であるが、文化元年(1804)の地震で島でなくなった。

三崎峠
三崎峠

象潟から南下して酒田に向かう途中で芭蕉の歩いた三崎峠の山道を少し歩く予定でしたが、 激しい雨のために中止となった。

笠取峠
笠取峠

三瀬から小波渡に抜ける羽州浜街道の絶壁の峠は風が強いので笠取峠とよばれ、 義経主従はここを北上し平泉に向い、芭蕉は南下て村上に向ったという。

塩俵岩
塩俵岩

自然の風化作用によって割れ目が斜めになった岩が温海に入ってからあった。 ここにも「あつみ山や吹浦かけて夕涼み」の句碑が建っていた。

鈴木所左エ門宅跡
鈴木所左エ門宅跡

元禄2年6月26日に芭蕉が宿泊した鈴木所左エ門宅跡が温海の旧道沿いに残っている。

芭蕉供養塔
芭蕉供養塔

温海温泉の温泉神社の参道の石段脇にこの芭蕉供養塔が建てられていた。

温泉神社本殿
温泉神社本殿

古くは湯蔵権現と称し由豆佐売神を祀り東北地方にある温泉神社の中でも最古級の歴史を持っているそうです。 江戸時代に入ると庄内藩主酒井氏から庇護され社殿の再建や改修には藩費により行われていたという。 またここが温海山への登山口になっていました。

念珠関所跡
念珠関所(ねずがせきしょ)跡

白河・勿来の両関と共に奥羽三関の一つに数えられた関所跡で、奈良時代の初めには羽越国境の鼠喰岩付近に設けられていたので 鼠ヶ関とも呼ばれていた。往時は通行人を取り調べる関所というより蝦夷に対する防御柵の役目をしていた。

念珠松公園
念珠松(ねんじゅのまつ)公園

元村上屋旅館で400年前から盆栽として育てられた黒松が見事に育てられ全長20mにもなった臥龍型の松。 奥の細道には関係ない。


旧鼠ヶ関所跡
旧鼠ヶ関所跡

念珠関所は奈良時代の初めには羽越国境の鼠喰岩付近に設けられていたので鼠ヶ関とも呼ばれていた。 源義経・弁慶の勧進帳の舞台は一般には石川県小松の安宅の関ということになっているが、 この地元ではこの鼠ヶ関所が本家であるとの言い伝えがある。

山形・新潟県境
山形・新潟県境

旧鼠ヶ関所跡の直ぐ南に山形と新潟県境があり、境界線をまたいで2県にまたがって立つことが出来た。

北中芭蕉公園
北中芭蕉公園

平成元年に芭蕉の中村訪問300年を記念して芭蕉公園を作り、芭蕉句碑を建てたという。
 さわらねば 汲まれぬ月の 清水かな

瀬波グランド・ホテルはぎのや
瀬波グランド・ホテルはぎのや

17:00 2日目の宿の瀬波温泉の瀬波グランド・ホテルはぎのやに到着した。

ホテルからの眺め
ホテルからの眺め

正面の姿が良い山は鷲ヶ巣山1,093mだそうです。

鶴岡から象潟を経て瀬波へのルート地図

地図は拡大・縮小出来ます。ドラッグして移動も出来ます。地形図指定で3D表示も出来ます。

赤線は芭蕉一行が辿ったルートです。青線は 筆者の辿ったルート。
温海温泉から中村宿まで芭蕉と曽良は別ルートを歩いていることにご注目下さい。

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