元禄2年(1689年)5月12日(新暦6月28日)、芭蕉と曽良は雨中一関に到着。その夜、磐井橋付近の民家(金森家)に宿泊した。 翌朝(5月13日)天気は一転し、陽光の下、平泉に向けて出立した。平泉では無量光院、高館義経堂、中尊寺等を訪ねた後、夜はまた一ノ関に戻り金森家に泊まっている。
平泉の高館城址にある芭蕉句碑
十二日、-中略- 心細き長沼にそうて
三代の
夏草や
卯の花に兼房みゆる白毛かな 曽良
かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。
七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽ちて、頽廃空虚の叢となるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぐ。暫時千載の記念とはなれり。
五月雨の 降りのこしてや 光堂
前日雨に降られて一ノ関の宿に泊まり、5月13日は晴天の中藤原三代の地、平泉の城址を訪れた。
城の回りには北上川が流れる。
昔この城で忠臣たちが立てこもって戦った跡を見ると、杜甫の詩が思い出され、時が経つのも忘れ、涙を流してしまった。
その感動を表して芭蕉と曽良が1句ずつ読んだ。
この城には今夏草が生い茂っているが、昔は義経や藤原氏の武士たちが戦った夢のあとだなあ!!
その後、中尊寺の経堂と光堂が開帳されていたので、それを見た後、芭蕉はまた光堂について1句詠んだ。
長い間、さすがの五月雨も降り残したのであろうか、燦然と輝いているよ!!
空堀や 栄華の跡は 遠くあり
夏草や バイパスの音
夏草や 旅人どもは
光堂 人人人の 暑さかな
本堂で 蝉の声消す バイオリン
汗ぬぐいつ 風鈴求む 月見坂
旧暦5月12日「かっぱも透る」大雨の中、芭蕉一行は一ノ関を流れる磐井川の橋のたもとにある宿に入った。この宿にはその夜と翌日平泉訪問の後も泊まったことから二夜庵と呼ばれている |
曽良随行日記には、芭蕉一行が一関のどこに止宿したかについての記述はないが、磐井橋近くにあった金森家と伝えられている。しかし、金森家は隣接して二軒あったとされ、そのいずれに芭蕉が二泊したかについては定かではない。
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レストラン世嬉の一は地名一ノ関をもじった傑作な名前のレストランで写真の建物の1階がレストランで2階がビールの醸造所になっていた。
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柳之御所遺跡について紹介する資料館で発掘調査で出土した約400点の重要文化財が展示されている。 発掘調査は昭和63年(1988年)から6年間にわたって大規模に行われたが、現在も断続的に調査が行われいるそうです。
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柳之御所遺跡は11.2万平方メートルの広さがある藤原氏の政庁跡です。鎌倉幕府が編纂した公式の歴史書である「吾妻鏡」に記されている「平泉館」に当たるのではないかとされている。背景の小高い山は義経堂がある高館城址。
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無量光院は、藤原秀衡が柳之御所の西側に建てた持仏堂ともいわれる寺院で、「吾妻鏡」に宇治の平等院鳳凰堂を模して建てたと書かれている。
背景中央の山は金鶏山。訪れた折には中の島の発掘調査が行われていた。
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画面中央が本堂跡で手前の草原は池であったという。本堂の直ぐ向こう側には東北本線が通っているので、平泉駅から東北本線で北へ向かう折には無量光院跡が見える筈。
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高館から東方を眺めると、その昔「さくら山」と呼ばれ、京都の東山に見立てて桜狩りを楽しんだという束稲山があり、眼下に北上川が悠々と流れている。
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義経堂は天和3年(1683年)、仙台藩四代藩主伊達綱村により建立され、芭蕉はその6年後にこの義経堂を訪れている。
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曽良の句碑が建つ「卯の花清水」は、高館の北側の上り口からほど近いところにある。 卯の花に兼房みゆる白毛かな 曽良 |
中尊寺の金色堂に登る坂下にある蓮池
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![]() 中尊寺金色堂(覆堂) 金色堂は、天治元年(1124年)奥州藤原氏・初代清衡により造営された中尊寺創建当初の唯一の遺構。須弥壇に藤原三代の遺骸が納められている。
中央の須弥壇には、初代清衡の遺骸、向かって左の壇に二代基衡、右の壇に三代秀衡の遺骸が安置されており、秀衡の遺骸の傍らに、子泰衡の首級が納められている。
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五月雨の 降のこしてや 光堂 あたりの建物が、雨風で朽ちていく中で、光堂だけが昔のままに輝いている。まるで、光堂にだけは、五月雨も降り残しているようなことではないか。
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「おくのほそ道三百年・芭蕉祭」を記念して、平成元年5月13日、金色堂旧覆堂脇に建てられた。製作者は、東京芸術大学助教授(当時)の戸津圭之介氏。
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新覆堂建設の際、現在地に移築された。「金色堂建立から164年後の正応元年(1288年)に、鎌倉幕府が風雪から護る為に建造した」と説明されるが、 解体調査の結果、建築様式から判断してそのことは疑問視されているそうです。
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![]() 讃衡蔵 讃衡蔵は中尊寺に伝わる文化財・宝物を永く後世に伝える宝物館として建設され、平成12年(2000)に新築された。館名の讃衡蔵とは
「奥州藤原三代(清衡・基衡・秀衡の衡)の偉業をたたえ(讃)る宝蔵」という意味だそうです。
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中尊寺は嘉祥3年(850年)に慈覚大師が開基した天台宗の寺院で、建立時は関山弘台寿院と号したが、貞観元年(859年)に中尊寺と改めたという。
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![]() 東物見からの平泉の眺め 弁慶堂の反対側に木立が途絶えたところがある。ここが東物見で、ここから平泉の現在の地形を俯瞰することが出来る |
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桜の花を愛し続けた西行が京都の東山に見立てた束稲山の桜を称えて詠んだ ききもせず たばしね山のさくら花
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源義経の木像と立ったまま大往生をとげたと伝えられる弁慶の木像が安置されている。
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