曽良の随行日記によると2人は旧歴5月8日日(陽暦6月24日)仙台を発ち先ず古くから歌枕で有名な多賀城碑の壺の碑を訪れ、一旦塩竈に向かい湯漬けの食事を済ましてから、再び多賀城の末の松山や野田の玉川のおもわく橋と浮島神社など戻っている。私たちツアーは末の松山や野田の玉川のおもわく橋を先に訪れた。

8回ツアー3日目Head壺の碑

多賀城政庁跡の南側に立つ壺の碑

壺の碑は市川村多賀城にあり。

芭蕉は古くから歌枕として知られているこの多賀城碑を後世伊達綱村の代に建てられたものだとは知らず、千年も前のものだと信じて、涙を流して感激したと奥の細道に記している。

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芭蕉の奥の細道:5月8日の旅

かの画図(えず) にまかせてたどり行けば、奥の細道の山際に、十符(とふ) の菅あり。今年も年々十符の菅菰(すがごも)調(ととの)へて国守に献ずといへり。

壺碑(つぼの いしぶみ)市川村多賀城にあり。

つぼの石ぶみは、高さ六尺余、横三尺ばかりか。苔を穿(うが)ちて文字(かすか)なり。 四維国界(しいこっかい)の里数をしるす。此城、神亀元年、 按察使(あぜち)鎮守府将軍大野朝臣東人(おおのあそんあずまびと)所置(おくところ) 也。 天平宝字六年、参議東海東山節度使同将軍恵美朝臣修造(おさめつくる)也。而十二月朔日(ついたち) と有り。聖武皇帝の御時に当れり。 昔よりよみ置ける歌枕多く語り伝ふといへども、山崩れ川落ちて道改まり、石は埋れて土に隠れ、木は老いて若木にかはれば、時移り代変じて、其の跡たしかならぬ事のみを、 こゝに至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を (けみ)す。行脚の一徳存命の悦び、羇旅(きりょ) の労を忘れて (なみだ)も落つるばかりなり。

前日、絵師の加右衛門が描いてくれたイラスト画を頼りにこの紀行文の題名になった奥の細道(塩竈街道)通って歌枕で有名な多賀城跡にある壺の碑に辿りついた。

この碑を見て芭蕉は、昔から歌に詠み残された歌枕は沢山あるけれど、時代が変わっても当時そのままに残っているこの碑を見ると千年の時を越えて実物が迫ってきたと涙を流して感激した。

芭蕉の奥の細道:5月8日の後半の旅

それより野田の玉川、沖の石を尋ぬ。末の松山は寺を造りて末松山(まつしょうざん)といふ。松のあひあひみな墓原にて、 羽をかはし枝を連ぬるちぎりの末も、終はかくのごときと悲しさもまさりて、塩竈の浦に入相のかねを聞。 五月雨の空聊か晴れて、夕月夜かすかに、(まがき)が島もほど近し。(あま)の小舟こぎつれて肴分つ声々に、つなでかなしもと詠みけん心もしられて、いとゞ哀なり。 その夜目盲法師の琵琶をならして奥浄瑠璃といふ物をかたる。 平家にもあらず舞にもあらず、鄙びたる調子うちあげて、枕近うかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚えらる。

壺の碑を見た後、野田の玉川や末の松山を訪ねた。その裏手にある墓地をみて、芭蕉は生あるもののはかなさと人生の無常を感じたと記している。塩竈の浦では浜辺の風情を味わい、夜は盲目の琵琶法師の奥浄瑠璃聞いて旅の殊勝な気分に浸った。

筆者の第八回目のツアーの行程: 平成24年5月17日(木)

芭蕉の足跡を訪ねて長兵衛が詠む:

 初夏の雨 末の松山 海近し

 津波あと 壁に線かく こぬか雨

 廃寺は 雨に濡れたる 石

 皐月雨 笠さし歩く 歌枕

 いしぶみを 蔽いて黙す 五月雨

 家持の 無念想いし 夏の雨

 

第八回目のツアーの3日目:

末の松山末の松山

末の松山は現在の宝国寺で、古来より歌枕として親しまれているが、現在は丘の上に2本の松が立っており、背後に墓地が迫っている。 「後拾遺集」に清原元輔の次の歌が載っている。

契りきな かたみに袖を しぼりつつ
       末の松山 波こさじとは


沖の石沖の石
坂を下りて数分で沖の石に到着。
ここは3.11の津波で1.5m位浸水したという。 ここは池の中に奇岩怪石が盛り上がっている。
百人一首に載っている 次の歌の歌枕の地であるという。

わが袖は しほひに見えぬ
   沖の石の 人こそしらね 
      かわくまもなし 二条院讃岐

 

おもわく橋野田の玉川に架かるおもわく橋

夕されば 汐風越して みちのくの
野田の玉川 千鳥なくなり
              能因法師

多賀城廃寺多賀城廃寺

多賀城跡の南東1kmの丘陵にあり、多賀城鎮護のために建てられたと言われている。昭和36年から37年にかけて発掘調査がおこなわれ、金堂、講堂、僧房、鐘楼、経倉、東倉、西倉、三重塔、中門、南大門等を擁した大伽藍であることが判明した。

 

壺の碑雨に濡れた壺の碑

壺の碑というのは本来は征夷大将軍坂上田村麻呂、実は文屋錦麿が奥州七戸の壺村の北に立てたと伝えられるもので、新古今和歌集の頃までは歌枕 としてそれを指してきたが、伊達綱村の代に多賀城から発掘された古碑が「壺の碑」とされるに及び芭蕉もそれを信じてしまって、千年前の「壺の碑」 に接することが出来たと感動の余り涙を流したと奥の細道に記している。


壺の碑内部壺の碑の内部、残念ながらレンズの水滴が写っている

奈良の京から1500里(1里は540m)、約800kmなどの道程と、政庁の初建立神亀元年(724年 )と、再建を記念し、この石碑を建てた(762年)ことが記されている。

正岡子規は明治26年の芭蕉200回忌7月30日病気を押して多賀城を訪れている。
のぞく目に一千年の風すずし  子規

多賀城政庁跡多賀城政庁跡

多賀城正殿跡多賀城正殿跡

多賀城昨貫地区多賀城跡の作貫地区
政庁の実務を行う役人の働く地区

空堀覆い屋 多賀城跡の作貫地区の空堀覆屋
空堀が年月の風化で崩れるのを防ぐための覆い屋

 

浮島神社浮島神社
塩竈の まへにうきたる浮島の
うきて思ひのある
     世なりけり
            新古今和歌集

レストラン松平旬菜家昼食を摂った旬彩家松平
一軒家の食堂で創作料理が大変美味しかった



多賀城市文化センター多賀城市文化センター

大伴家持記念碑大伴家持の没後千二百年記念碑

家持説明板多賀城市文化センターにある大伴家持の石碑の説明

陸奥按察使兼多賀城鎮守将軍としてこの地に着任、当地で亡くなった万葉歌人大伴家持の石碑と歌碑が建っていた。

大伴家持石碑大伴家持の歌碑
右側の歌碑に万葉仮名(漢字)、左側にかな交じり歌碑

大伴の (とおつ)神祖(かむおや)
      奥つ()は (しる)(しめ) 立て
       人の知るべく


大伴家持歌碑大大伴家持の原文の万葉仮名歌碑の写真

大伴家持の歌碑の原文写し

万葉の時代にはまだ仮名が無かったので中国から伝わった漢字の音読みで歌を書いた

   大伴家持作歌
大伴能 等保追可牟於夜能
於久都奇波  之流久之米多底
比等能之流倍久