旧歴4月5日、2人は仏頂和尚の修行山居を見に雲厳寺を訪ねている。14日間の黒羽滞在の後、 館代に馬で送ってもらい那須の殺生石に向かったが、途中雨に降られて高久の庄屋の家に2泊している。旧暦4月20日には那須を 発って、芭蕉が尊敬する西行の歌枕の地である芦野の遊行柳を訪ねている。
芦野の里にある遊行柳の遠景ー柳の下には西行の歌碑、芭蕉の句碑、及び蕪村の句碑が建っている
田一枚 植ゑて立ち去る 柳かな
当国
「
と松の炭して岩に書きつけはべり。」といつぞや聞き給ふ。
その跡見んと、雲厳寺に杖曳けば、人々進んで共にいざなひ、若き人多く道のほどうちさわぎて、おぼえずかの麓にいたる。山はおくあるけしきにて、谷道遥かに松杉黒く苔したたりて、卯月の天今なほ寒し。十景尽くる所、橋を渡って山門にはいる。
さて、かの跡はいづくのほどにやと、後ろの山によじのぼれば、石上の小庵、岩窟にむすびかけたり。
と、とりあへぬ一句を柱に残し侍りし。
この下野の国にある雲厳寺の山奥に、仏頂和尚が山住まいしておられた跡がある。
「竪横五尺に満たない草の庵を作って住むのも無念に思われることよ 雨など降らなかったなら、庵などに住まずに自由に生きられたものをと松明の炭でそばの岩に書きつけました」と、いつだったか和尚が私におしゃった。
そこでその跡を見ようと、雲厳寺に杖をついていこうとすると、人々が進んで、ともに誘い合い、若者が多く、道中が大にぎわいで、あっという間にあの寺の麓に着いた。山は奥深い様子だあって、谷沿いの道が遥かに続き、
松や杉はうっそうと生い繁り、黒く苔が群生し、そこに雫がしたたり落ちて、四月の夏の空は今でもなお寒く感じられる。お寺の十景が終わったところで、橋を渡って山門に入る。
そして、あの仏頂和尚の山ごもりの跡はどのあたりであろうかと、後ろの山によじ登ると、石の上の小さいな庵が、岩窟にくっつくように建っている。中国南宋時代の妙禅寺の死関や、梁時代
の法雲法師の石室を見るような感じだ。啄木鳥もさすがにこの小さい粗末な庵は、つついて壊そうとしないよ。それ程今にも壊れそうな庵だよ。この奥深い森閑とした夏木立の中で と即興で一句詠んだ。
これより
野を横に 馬
殺生石は
黒羽から殺生石に行く。館代の浄法寺殿から、馬で送ってもらう。この馬の手綱を取る男が、「短冊にあなた様の発句をひとつ書いていただきたい」と求めてくる。 風雅なことを望むものですなあ、と感心させられたので、次の句を与えた。 「野原を進んで行くと、ほととぎすの鳴き声が聞こえる。さあ子よ、その方に馬を向けてくれよ」殺生石は那須の温泉が噴き出る山の陰にあった。 石の毒気はいまだもっておさまらず、蜂や蝶などの虫の類が、砂の色が見えないほど重なり合って死んでいる。
また、清水流るるの柳は、
田一枚 植ゑて立ち去る 柳かな
また、西行法師が「清水流るる」と詠んだ柳は、芦野の里にあって、今でも田の畔の残っているという。この地の郡主で、戸部なにがしという者が、
「この有名な柳を見せたいものです」などと、折々におっしゃって下さった。 その柳を、どの辺りにあるのだろうかと思っていたが、今日とうとうこの柳の陰に立ち寄ることが出来た。
そこで一句詠んだ。
有名な柳の陰で西行法師を偲んでいると、いつの間にか時間が過ぎ去り、気が付くと目の前で田を植えていた人々は田を一枚植え終えて立ち去ってしまっていた。
私も名残惜しいが、このへんで柳の陰から立ち去ることにしよう。
田一枚植て立去る柳かな
蕪村の句碑見学
大欅 日光通さぬ 雲厳寺
行く畔を 逃げて飛び去る 青蛙
赤とんぼ 毒気も知らず 止まりおる
那須温泉神社
なすゆぜんじんじゃと読む。略記によれば、奈良朝のころ茗荷沢の住人狩野三郎行広が、矢傷を負わせた白鹿をこの地まで追ったときに、温泉の神の力添えで温泉を発見でき、村人がこの神の恩に報い神社を建てたのが神社の創始とされる。
那須温泉神社の芭蕉句碑
湯を結ぶ 誓いも同じ 石清水
曽良の随行日記に次のように書かれている。
温泉大明神の相殿に八幡宮を移し奉りて、両神一方に拝まれさせ給ふを
殺生石
殺生石の入口
殺生石の芭蕉句碑
この句は奥の細道には載っていないが、曽良の随行日記に記されている
いしの香や なつ草あかく 露あつし
殺生石の千体像
高久の芭蕉二宿の地
4月16日(新暦6月3日)、芭蕉一行は黒羽を立ち、殺生石見物のため那須湯本を目指したが、降雨のため、途中立ち寄った高久の名主高久覚左衛門宅に18日まで滞留した。高久家の庭にある石碑には、この真蹟句文がそのまま彫られている。
右の2句は奥の細道には載っていないが、曽良が後に書き残した「俳諧書留」に収録されている。
高久家の敷地に建つ芭蕉真蹟の石碑
みちのく一見桑門同行二人那須の篠原をたづねて猶殺生石見むとて急ぎ侍る程にあめ降り出ければ此ところにととまり候
風羅坊
落ちくるや たかくの宿の ほととぎす
木の間を のぞく 短夜の雨 曽良
鍋掛集落の八坂神社に建つ芭蕉句碑
野を横に 馬牽き向けよ ほととぎす
遊行柳
那須の殺生石から白河の関に向かう途上に尊敬する西行の歌枕の地を訪れた
遊行柳にある西行の歌碑
新古今集、山家集
道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ
室町後期、観世信光(1435〜1516)は、西行が詠んだ上の歌を主題にして謡曲「遊行柳」を創作した。これにより、芦野の柳は「遊行柳」として広く世に知られるところとなり歌枕の地となった。
芭蕉の句碑
田一枚植て立去る柳かな
西行法師が「しばし」とてと立ち止まったこの柳の陰に感慨を込めて時を送っていると、それまで前の田圃で田植えをしていた早乙女たちも、作業を終えて立ち去ってしまった。さあ私もここを立ち去ることにしよう。
蕪村の句碑
柳散清水涸石処々
柳散り清水かれ石ところどころ
芦野温泉神社・上の宮の大銀杏
遊行柳の背後に鏡山があり、その麓に、「おくのほそ道」で「此所の郡守戸部某」と書かれた芦野民部資俊が元禄4年に建立した 温泉神社(ゆぜんじんじゃ。通称・上の宮)がある。境内には、樹齢数百年の銀杏の巨木がある。
玉藻稲荷神社
玉藻の前(九尾の狐)の神霊を祭る神社で、玉藻の前は、絶世の美女に姿を変えて中国、 インド、日本の帝に仕え悪事を尽したという伝説の妖狐で、謡曲「殺生石」でつとに知られる。
玉藻稲荷境内の芭蕉句碑
秣おふ 人を枝折の 夏野かな
芭蕉は4月12日(新暦5月30日)玉藻稲荷神社を訪れ、「奥のほそ道」に、「犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて玉藻の前の古墳をとふ。」と記している。
玉藻稲荷境内の実朝の歌碑
もののふの 矢並みつくろふ 籠手(こて)の上に霰(あられ)たばしる那須の篠原
玉藻稲荷の鏡池伝説の説明板
芭蕉は黒羽滞在中この玉藻稲荷を訪れ、玉藻の伝説に興味を持ったために、後日伝説縁の那須殺生石を訪れようと思ったに違いない。
雲厳寺入口より山門を臨む
雲巌寺は、臨済宗妙心寺派の禅寺で山号を東山という。芭蕉は尊敬する仏頂和尚の修行山居を見ようとこの寺を訪れた。
瓜(か)てつ橋より見下ろす武茂川の渓谷
瓜(か)てつ橋より見下ろす武茂(むも)川の清流
雲厳寺山門
境内の堂宇の殆どは秀吉勢の兵火によって焼かれたが、この山門は唯一兵火を免れて残っている当時のままの建築物ださそうです。
雲厳寺境内の仏頂和尚の歌碑と芭蕉句碑
たて横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやしあめなかりせば 仏頂
木つゝきも庵はやぶらず夏こだち 芭蕉
雲厳寺本堂
雲厳寺鐘楼