旧歴4月2日の昼時、2人は日光を発って黒羽に向かった。本来ならば今市を経由して行く所、近道を選んだが途中雷雨にあったため、玉生の宿に一泊し、 翌日那須野を行くが心ある農夫の好意で馬を借り、奥の細道の中でも有名な場面のかさねという女の子に会う。黒羽では知人の桃雪と桃翠の家を訪ねて歓待をうけ、そこで何と14日間も滞在している。
黒羽の芭蕉の館前の芭蕉の馬上銅像
かさねとは八重撫子の名なるべし 曽良
那須の
かさねとは八重撫子の名なるべし
曽良
やがて人里にいたれば、あたひを鞍つぼに結びつけて馬を返しぬ。
黒羽に行こうと思って那須野を横切った。道はなかなか遠く雨が降り、農夫の家に一夜を借りる始末。翌日、野飼いの馬を借りた。馬の借り方、返し方も実に田舎っぽくてよい。 小さい子が2人、馬のあとを追いかけてきた。一人は女の子で、かさねという。つらい那須野越えだったが、最後に心が和まされた。
黒羽の館代浄法寺なにがしの方に
夏山に
黒羽の知り合いである桃雪と桃翠の家を訪ねて、大変な歓待をうけた。何日か滞在して、黒羽の郊外を散策し、犬追物の跡を見たり、那須の篠原を通り、玉藻の前の古墳にお参りし、 源平合戦で名高い那須の与市を祭ってある那須神社も訪ねた。また光明寺にも招かれ、行者堂を参拝して、黒羽では大変充実した滞在となり、夏山を見ながらこれからの長旅を思い行者の足駄を祈って、 旅の再出発を願ったことよ。
那須神社 与一の里で 濡れておる
紫陽花や 濡れて静かに 芭蕉句碑
黒羽に 翁迎えし 人の声
梅雨草に 靴を濡らして 旅終える
朝も夕も スカイツリーは
芭蕉一行は日光を発って、日光北街道を画面奥から手前に歩いた来たが、雨に降られて玉生宿で旅籠に入った。ところが、実際は宿悪しきゆえ、玉生の名主の家に泊めてもらったようである。日光を昼過ぎ発って玉生宿まで約40qを半日で歩いたことになり、ここでも芭蕉の健脚振りが伺える。 |
![]() 玉生の芭蕉一宿の碑 奥の細道では芭蕉は「農夫の家に一夜をかりて」と書いているが、曽良の随行日記によると、玉生の名主の家に泊めてもらったようです。芭蕉一宿の碑は関東バス駐車場を入った所の森の中にあった。名主の家跡は一時尾形医院になっていたが、今は空き地になっている。 |
那須神社は仁徳天皇(313〜399年)時代の創立で、さらに延暦年中(782〜806年)に征夷大将軍坂上田村麻呂が応神天皇を祀って八幡宮にしたと伝えられている大層古い由緒ある神社で、芭蕉も黒羽滞在中に桃翠に案内されてここを訪れている。奥の細道には:
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源氏ひいきの芭蕉は壇ノ浦の源平合戦で平家の挑戦を受けて扇の的を射落とした那須の与一にも関心があり那須神社を訪れた。
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黒羽藩3代藩主大関高増によってこの地に移され、豪商高柳源左衛門によって焼出した寺社が再建された。
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野を横に 馬ひきむけよ ほととぎす
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矢張り、黒羽藩3代藩主大関高増によってこの地に移され、黒羽藩に保護された寺院。
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余瀬の桃翠宅で開かれた連歌会、七吟歌仙で詠んだとされる俳句で、石の上に立って毎朝朝日を拝む行者の姿を詠んだもの。 今日も又 朝日を拝む 石の上
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ホテル花月はこの田園地帯にしては瀟洒な清潔感あるホテルでした。当地は那珂川の鮎釣りで有名な所だそうです。
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橋は那珂川に架かる那珂橋、遠景左の山は芭蕉公園と黒羽城址公園らしい。
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杉並木に覆われた長い登りの参道でした。
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![]() 大雄寺の茅葺の総門 境内の建物はすべて茅葺で、江戸時代中期の建造であるが、室町時代の様式をよく残しており、栃木県の有形文化財に指定されています。
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![]() 大雄寺の本堂も茅葺の立派なもの 大雄寺(だいおうじ)は流石黒羽藩主大関氏の菩提寺だけあって立派なもので大関氏10代当主大関忠増が再建した文安5年(1448年)当時の面影をそのまま残している。 |
![]() 黒羽藩主代々の墓 大雄寺裏手の丘の一番高い場所に黒羽藩主代々の立派な墓が並んでた。
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芭蕉一行は浄法寺桃雪とその弟の桃翠の歓待を受けて奥の細道紀行の中で最長の14日間の滞在をこの黒羽でした。この兄弟は以前父に伴って江戸に滞在したことがあって、その折に芭蕉の門人となっていた。
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行く春や 鳥啼き魚の 目は泪
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山も庭も 動きいるや 夏座敷
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![]() ひっそりとした佇まいの旧浄法寺邸 私たちツアーの一行は中に入ってお茶の振る舞いを受けた。廊下からの雨に濡れた庭の眺め、芭蕉を迎えた浄法寺家の人々の喜びを想像した。
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黒羽の地で芭蕉を迎えた浄法寺家の人々の喜びは計り知れないものがあったでしょう。
紫陽花や 濡れて静かに 芭蕉句碑
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往時の黒羽城三の丸であった所に建てられた芭蕉と黒羽藩主大関家の資料を集めた常設館。館の前庭左手には芭蕉が馬に乗り曽良がそれに従う旅姿のブロンズ像がある。
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芭蕉の館の前庭左側に芭蕉と曽良の旅姿の大変リアルなブロンズ像が建っていた。
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黒羽城三の丸にある芭蕉の館から本丸に向かう途中に深い空堀に架かる橋を渡った。橋上から見る空堀は見事な紫陽花のお花畑になっていた。
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修験光明寺跡といっても寺院らしい遺跡は何もなく、只案内の標識が建っているだけだった。左側に写っている男性は講師の西平先生です。 |
案内の標識に従って坂を登り林の中に入ると奥の細道の黒羽の項の最後に載っている句の石碑だけがあった。
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西教寺は人里離れた田園地帯にあった。黒羽藩15代藩主大関増裕は財政再建の為、新田開拓を奨励し、加賀、越前、越後から開拓民を募集したが、その殆どが浄土真宗の信徒であったことからこの寺院が建立された。
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黒羽入りする日、後を慕ってついてきた「かさね」という少女の純情な心を曽良が読んだもの。 かさねとは 八重撫子の 名なるべし
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鹿子畑翠桃(奥の細道には桃翠と出ている)邸は現在水田地帯となっており、鹿子畑家の墓地しか残っていない。 芭蕉が桃翠邸に滞在した折にはここで七吟歌仙が興行されたという。翠桃の墓は左から4番目の丸い墓のようです。
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鹿子畑翠桃の墓地横には当時ここで催うされた七吟歌仙で詠まれた俳句のすべてが説明板に残されている。
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