旧歴3月29日、2人はそそくさと「室の八嶋」を発って 壬生を経て例幣使街道を通り鹿沼に至り、曽良の随行日記によるとその夜はそこで奥の細道の3泊目をしている。 奥の細道の記述によると、元禄2年3月の晦日に日光山の麓の仏五左衛門方に泊まる記されているが、 その月は小の月なので実際には4月1日には日光に入って二荒山神社にお参りしている。

日光の芭蕉句碑

日光二荒神社近くの芭蕉句碑

あらたふと青葉若葉の日の光

第七回ツアーへ  第二回ツアーへ   第一回ツアーへ   奥の細道目次へ   サイトトップへ

芭蕉の奥の細道へ3日目と4日目の旅

 

卅日(みそか)、 日光山の麓にとまる。あるじのいひけるよう、  「わが名を仏五左衛門といふ。よろづ正直を旨とする故に人はかく申し侍るまま一夜の草の枕も打ち解けて休み給え。」といふ。

いかなる仏の濁世塵土に示現して、かかる桑門 の乞食巡礼ごときの人をたすけ給ふにやと、  あるじのなす事に心をとどめて見るに、唯無知無分別にして、正直偏固の者なり。剛毅木訥の仁に近きたぐひ気稟の清質もつとも尊ぶべし。

 

 卯月朔日(うづきついたち)、 御山にも参詣す。往昔(そのかみ)この御山を二荒山(ふたらやま)   と書きしを、空海大師は開基の時日光と改め給ふ。

千歳未来をさとり給ふにや、今この御光一天にかかやきて、恩沢八荒にあふれ、四民、安堵栖穏(みや)かなり。   なほ憚り(はばかり)多くて、筆をさし置きぬ。

 

あらたふと青葉若葉の日の光

黒髪山は霞みかかりて、雪いまだ白し。


剃り捨てて黒髪山に衣替え
              曽良

 曽良は河合氏にして惣五郎といへり。芭蕉の下葉に軒をならべて、このたび松島・象潟 の眺め共にせんことを悦び、かつは羈旅の難をいたわらんと、旅立つ暁、髪を剃りて墨染めにさまをかへ、惣五を改めて宗吾とす。よって黒髪山の句あり。 衣替えの二字、力ありてきこゆ。

廿余丁、山を登って滝あり。岩洞の頂きより飛流して百尺、千岩の碧潭に落ちたり。

岩窟に身をひそめ入りて、滝の裏よりみれば、裏見の滝と申し伝へはべるなり。

  暫時は滝に籠るや夏の初

 

今回、第三回目のツアーの行程:
 平成23年12月6日(火)

暫時は 滝に籠るや 夏の初
  
 

上の句は裏見の滝で詠んだ句です。
以前は裏見の滝の入口に建てられていたが、現在は安良沢小学校の敷地内に移築されている。

あらたうと 木の下闇も 日の光

この句は何回も推敲の後に奥の細道に載せられた「あらたうと・・・」の原句とし大日堂に残っていたものです。

このように芭蕉は最終的に奥の細道に発表する前に何回も推敲を重ねていたようです。

平成23年12月6日
芭蕉の足跡を訪ねて長兵衛が詠める:

 

 鹿沼には 笠塚残る 冬の旅

 あらとふと 車連なり 日の光

 落葉踏み 登り来たるや
              滝の音

 冬枯れの 谷の底より 滝の音

 暫らくは 息のむ人や 冬の午後

 岩をはむ 凍てつく淵に 
              地蔵立つ

 黒髪に 白き筋みせ 御山立つ

 推敲の 跡みせたるや 石碑かな

 俳聖の 推敲のあと 想う冬

第三回目のツアー:
鹿沼の光太寺、今宮神社より日光二荒山神社等のルート地図

鹿沼光太寺

奥の細道の3日目の宿泊地と見做されている鹿沼光太寺

当時この寺は無人寺であったことから、果たして芭蕉一行がこの寺に泊まったかどうか疑問視する説もある

光太寺の笠塚

鹿沼光太寺の笠塚

当日雨に降られて蓑傘が破れたので、新しい笠を新調し古い笠をここに収めたという言い伝えです

 

鹿沼光太寺の笠塚の説明板

鹿沼今宮神社鹿沼光太寺から俯瞰した鹿沼市街の風景

この鹿沼市街には京都から中仙道を通り、高崎を経て日光に向う「例幣使街道」が走っている。ここを通って毎年天皇の名代が日光山に参詣したという。

例幣使になった 京都のお公家さん達は滅多に京都から出ることがなかったために、この日光山に参詣の役目を大層楽しんだと言われています。

鹿沼今宮神社

鹿沼今宮神社

日光東照宮の造営に集まっ匠達が当地に住み着き、この神社の造営にも係って立派な細工が施されている。
境内裏山の林の中にはひっそりと芭蕉の句碑が建てられている。この句碑には元禄3年芭蕉が門弟で近江膳所藩士高橋怒誰(どすい)に送った書簡の中に記している「君やてふ我や荘子の夢心地」の句が刻まれている。

芭蕉の句には古代中国の思想家である荘子に影響を受けたものも多いという。

日光街道の杉並木を通るバス

 

例幣使街道は楡木で日光西街道に合流し、更に今市で日光街道に合流する。

このバスは中型なので例幣使街道の杉並木を通ることが出来た。大型バスは通行できないという。 

 

日光二荒山神社日光二荒山神社

現存の社殿は、元和5年(1619年)に2代将軍徳川秀忠が造営したもので、八棟造りの様式をとり、本殿、唐門、掖門及び透門、拝殿、大国殿、鳥居、神輿舎などが国の重要文化財に指定されています。二荒山の名は観音菩薩が住んでいるとされる補陀落山(ふだらくさん)が転嫁し、二荒を日光の字に当てたとされています。

東照宮に向う道二荒山神社から東照宮に向かう道

師走の寒空にも拘わらず、可なり参拝者が歩いていたが、日光東照宮は今回の旅から割愛された。

二荒山の芭蕉句碑日光で詠んだ芭蕉句碑

日光二荒山神社から東照宮に向かう途中にある日光東照宮宝物館の敷地内に芭蕉句碑がある。

 

あらたうと 青葉若葉の 日の光

 

ああ尊いことだ。東照宮のある日光山の青葉や若葉に照り輝く初夏の日の光は。

 

 

裏見の滝へ上る道裏見の滝の駐車場から滝へ登る山道

 

裏見の滝近し滝の音が聞こえてきた

 

 落葉踏み 登り来たるや
             滝の音

 冬枯れの 谷の底より 滝の音

暫らくは 息のむ人や 冬の午後

裏見の滝裏見の滝

高さ20メートル幅2メートルの日光3名瀑の一つです。

安良沢小学校にある芭蕉の句碑

安良沢小学校にある芭蕉の句碑

暫時は 滝に籠るや 夏の初

 

大日堂跡

大日堂跡

  

往古には菩提ヶ原と称し、大日如来堂があった。慶安2年(1649年)、大楽院の慶海がこれを再建し、美しい池のある庭園の中に堂があり、大日如来の石像が安置されていた。明治35年の大洪水で全てが流され、現在は堂跡に幾つかの礎石が残るのみである。

大日橋から男体山を臨む

大谷川に架かる大日橋から黒髪山(男体山)を臨む

中程左の白い建物は安良沢小学校で、手前右側に大日堂跡

憾満淵

憾満淵の景色

日光東照宮から歩いて僅か15分の所にこのような清冽で美しい場所があるのは驚きでした。

憾満淵のお化け地蔵m

憾満淵に沿って並ぶ無数の地蔵尊

数える度に数が異なることから「お化け地蔵」とも呼ばれている。明治35年の大洪水で台座ごと流されたものや首だけ流されたものもある。

鉢石宿本陣跡の高野家邸内にある芭蕉句碑

あらたうと 木の下闇も
    日の光

これは奥の細道に掲載される前の原案の句で、この後何度も推敲された。芭蕉の句はこのように推敲を繰り返してから発表される。

 

西行の戻り石稲荷神社境内入口にある西行の戻り石

西行が奥州藤原氏の許へ奈良大仏修理のための勧進の旅に出てここを通りかかった折、この大石に座っていた子供の西行の問に対する和歌の応答に感心して日光に行かず、二荒山を遥拝しただけで引き返したという言い伝えがある。その大石の脇に「ながむながむ散りなむことを君もおもへくろ髪山に花さきにけり」という西行の家集「聞書集」に収められて歌碑がある。