草加松原の芭蕉像

草加松原の入口に立つ芭蕉の見返り姿像

第三回ツアーへ   第一回ツアーへ   奥の細道目次へ   サイトトップへ

芭蕉の奥の細道への旅立ち

与謝蕪村の絵

大橋公園の川岸に設けられた橋詰テラスの岸壁に描かれ
た 与謝蕪村の「奥の細道図屏風」の一部をデジカメで撮影したも
の ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

弥生も末の7日、あけぼのの空朧々として、月は有明にて、 光をさまれるものから不二の峰幽かに見えて、上野・谷中の花の梢またいつかはと心ぼそし。

むつまじきかぎりは宵よりづどいて、舟に乗りて送る。千住といふ所にて舟をあがれば、幻のちまたに離別の涙をそそぐ。

  行く春や鳥啼き魚の目は涙

これを矢立の初めとして、行く道なを進まず。人々は途中に立ちならびて、後ろかげの見ゆるまで見送るなるべし。

 

今回、第二回目のツアーの行程:
 平成23年11月1日(火)

   糸遊に むすびつけたる
    けふりかな

 

 上の句は大神神社の境内に石碑として残っており、曾良も俳諧書留に記しているが、奥の細道には載っていない。
 芭蕉が大変期待していた「室の八島」の項で奥の細道にはその情景も俳句も残していないことはこの歌枕の地に就いて芭蕉がかなり落胆していたと思われる。
 この句の意味は:”室の八島はかげろうのように煙っていたことよ”という芭蕉の嘆きのように思われます。

 

平成23年11月1日
芭蕉の足跡を訪ねて長兵衛が詠める:

 小春日に 碑を見て行きぬ
  八島まで

 大橋や 車車の 秋の朝

 陽だまりや おきなの矢立
  夢のあと

 千住宿 旧街道や 神無月

 小春日や 幻の宿 草加松 

 野木神社 並木の落ち葉
  ふたり旅

 間々田とは 泊りたくなる
  秋の夕

 室やしま けふりも見えず
  紅葉かな

第二回目のツアー:千住大橋から室の八島までのルート地図

千住大橋

小春日や 千住大橋 車列かな
当時は隅田川に架けられた唯一の橋がこの大橋でした
その後明暦の大火(振袖火事)で両国橋などが架けられた

矢立の初め石碑

是れを矢立の初めとして、行く道はなほ進まず

 千住宿2

日だまりや 翁の矢立 夢のあと
千住宿旧道入口にて

道標・千住

千住といふ所にて舟をあがれば、前途三千里のおもいひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の涙をそそぐ

おせん公園

おせん公園にある石碑「草加せんべい発祥の地」
おせんは草加せんべいを考案した女性と言われている
おせんは旧日光街道沿いの茶店で団子を売っていた。
ある日売れ残りの団子を綾瀬川に捨てようとしていたところ、通りがかりの武者修行者が売れ残りの団子を潰して天日干しにして売るように勧めたという。

 

曾良銅像

ことし、元禄二年にや、奥羽長途の行脚、
只かりそめに思い立ちて、
・・・中略・・・ 
其の日、漸う、草加という宿にたどり着きにけり。
とあるが実はこれは芭蕉の文学的虚構のようで、この銅像にある河合曾良の「随行日記」によると実際は江戸から約九里の春日部まで足を延ばしていたようです。

子規句碑

正岡子規が病床に伏す前にこの地を訪れ、
「梅を見て 野を見て行きぬ 草加まで」と詠んでいる

草加松原2

草加の松原は綾瀬川と並行して走る旧日光街道沿いに約1.5qに亘って続く松並木ではあったが、芭蕉がここをが通った折にはまだ松は植えられていなかった。

春日部の小淵観音

春日部の小淵観音院
境内には芭蕉の作と伝えられる
「ものいえば唇寒し秋の風」の句碑が建てられている。
曾良の「随行日記」には「二十七日夜、カスカベに泊まる、江戸より九里余」とあるので2人は最初の夜に春日部の何処かに泊まったことは間違いないようです。

野木神社

第十五代応神天皇十皇太子が祀られている大変古い神社。
参道に建てられている芭蕉の句碑には「一疋のはね馬もなし河千とり」とあるが、これは芭蕉の作でないという説もある。

泉龍寺と乙女不動

間々田の泉龍寺
奥の細道の第二泊目はこの間々田に泊まったとされているが、正確には何処かまだ分かっていない。
境内に小さい句碑があり、句集「続猿蓑」の中におさめられている句「川上とこの川下の月の友」であるというが、はっきりとは読みとることが出来ない。

乙女原瓦窯跡

泉龍寺の直ぐ前にある史跡乙女原瓦窯跡
下野国分寺の丸瓦を焼いていた跡だという

大神神社2

大神神神社(おおみわじんじゃ)
   室の八島に詣す。 同行 曾良が曰く、
「此の神は木の花咲耶姫の神と申して、富士一躰なり」

室の八島

「室の八島」は古くから多くの文人によって
詠われた有名な歌枕の地であったので
奥の細道に出発前から芭蕉は大いに期待していた