讃岐の国後半の札所の紹介

帰宅後、各札所に就いて色々な人に教えて頂いたことや、その他の情報を以下のように纏めてみました。

御姿79   
(こうしょういん てんのうじ)

   真言宗御室派 開基/弘法大師  御本尊/十一面観世音菩薩

   宇多津から坂出の市街へ入ると右に金山があり、その麓に日本武尊
     ゆかりの泉がある。八十八の水とも八十場(矢蘇場の水)ともいわれ、
     弘法大師がこの泉の附近を巡錫中に霊感を得て、近くの霊木で
     十一面観音像と阿弥陀如来、愛染明王を刻み、堂宇を建てて安置
     した。
 
   長寛二年(一一六四)この寺におられた崇徳天皇が歌会へ出席の
     途中亡くなられ、二十一日聞八十八の泉に仮安置され、やがて
     白峰山で茶毘にされた。
     それからは天皇寺ともいわれ、崇徳天皇をまつる白峰宮の別当に
     任じられた。

   御本尊の真言: おん まか きゃろにきゃ そわか

御印79
御姿80

(こくぶんじ)

   真言宗御室派  開基/行基   御本尊/千手観世音菩薩

   天平十三年(七四一)聖武天皇の勅願によって行基菩薩が開基し
     ご本尊を刻まれた。
     後に弘法大師が留錫して尊像を補修され、霊場に定められた。
     ご本尊は一木造りの高さ五・二㍍の立像で、裳には牡丹の絵模様
     や円形の散らし模様が描かれ、お顔には髪や毛を墨で描き、唇に
     は朱が施されている。
     
   国分の町へ入り国道から左へ折れて仁王門を入ると右に七重塔跡
     があり、十五個の礎石が残り、いまは石造の七重塔(鎌倉時代)が
     建っている。
     この前にある銅鐘(重文)は奈良時代の鋳造で、大蛇の伝説や高松
     城の時鐘の伝説で知られた古鐘である。
     正面の本堂の前は金堂跡で三十三個の礎石がある。
     橋を渡ると創建当初の講堂跡に建てられた本堂がある。
     九間四面の入母屋造り、本瓦葺きで鎌倉中期の建築といわれ天正
     の兵火にも免れ、堂内にご本尊の千手観世音が奉安されている。

     大師堂は多宝塔形式で、堂内で休息もでき、千体地蔵が安置され、
     納経所にもなっている。
       

   御本尊の真言: おん ばざらたらま きりく そわか


御印80
御姿81

(しろみねじ)

   真言宗御室派 開基/弘法大師・智証大師 

   御本尊/干手観世音菩薩

   白峯は俗塵から離れた静寂な霊域で五色台(青、赤、白、黒、黄峰)
     の西にあり、崇徳天皇の御陵があることで知られている。
     参道途中には弘安と元享の銘の刻まれた崇徳天皇の二基の供養
     石塔がある。
     高麗門形式の七棟門を入ると、茶堂、御成門、勅使門があって門の
     中には客殿、庫裡、納経所がある。
     さらに左へすすむと宝物館や不動堂、宝庫などの建物が並び、正面
     が勅額門、ここを入れば崇徳天皇の廟所・頓証寺殿である。

   本堂は勅額門の手前からの石段を登りつめたところにある。
     はじめは弘法大師が登山して宝珠を埋めて閼伽井を掘られ、
     後に智証大師が山の鎮守から霊地であることを告げられ、
     智証大師は瀬戸内海で異香を放つ流木を引きあげて千手観
     世音を刻まれ、ご本尊として安置した。

   御本尊の真言: おん ばざらたらま きりく そわか

御印81
御姿82

(ねごろじ)

   天台宗  開基/弘法大師   御本尊/千手観世音菩薩  

   弘法大師は入唐前にこの山へ登って草庵を結び、霊場とした。
     天長九年(八三二)智証大師が青峰の麓へ巡錫したとき、白髪の
     老翁(市之瀬明神)があらわれ
     「ここは観世音の霊地で三谷ある。毘沙門谷に行場を、法華渓に
     本堂、後夜谷には法華三昧の道場をつくり、また、蓮華谷の香木で
     本尊の観世音を刻むように」と告げた。

   その後智証大師は青峰に登り、老僧と出会うが、この老僧は山の
     守護神の山王権現であったことから、山を開くにあたり、市之瀬明神
     と山王権現を鎮守としてまつり、香木で観世音の尊像を刻んで先の
     老翁のいうごとく安置した。
     この香木の根の香りがあまりにも高いので寺名となり、また、香りが
     川に流れて香ることから「香川」の県名がつけられたともいう。
     智証大師が伽藍を建立後盛んになり、後白河天皇の勅願所にもな
     った。


   御本尊の真言:  おん ばざらたらま きりく そわか

御印82
御姿83

(いちのみやじ)

   真言宗御室派  開基/義淵僧正   御本尊/聖観世音菩薩

   大宝年間(七〇一~三)に義渕僧正が開き、はじめは大宝院と称し、
     法相宗に所属していたが、諸国に一宮が建てられたとき、行基菩薩
     が堂塔を修築し、田村神社の第一別当職となり、寺号も一宮寺に改
     められた。
     大同年間(806~10)に弘法大師が留まり、聖観音像を刻んで
     安置し、本尊とした。ものです。
   高松郊外にあり周囲が住宅化してゆく中で一宮寺は古い姿をとどめ
     ている。
     長曽我部元親の兵火で堂塔は灰燼に帰したが、憎宥勢によって
     再興された。延宝七年(1679)には、憎宥勢は高松城主松平頼重
     により田村神社の別当職を解かれ、神仏は分離した。現在もこの名
     残りをとどめ、仁王門の前は神社の境内地にある。
     本堂右に大師堂と庫裡・納経所があり、左に宝治元年(1247)建立
     の三基の石の宝塔があり、これは一宮御陵とよばれ、孝霊天皇
     百襲姫・五十狭芹彦命のものという。

   御本尊の真言: おん あろりきゃ そわか


御印83
御姿84

(やしまじ)

   真言宗御室派  開基/鑑真和上 御本尊/十一面千手観世音菩薩

   天平勝宝六年(七五四)来日した唐僧鑑真は大宰府を出発して難波
     へ向かったが、その途中屋島へ立寄り、北嶺に普賢堂を建て、
     その弟子恵雲律師が堂宇を整備して住職となった。
     これが寺の草創である。弘仁六年(815)には弘法大師が登山し、
     勅命によって一夜のうちに本堂を建立し、自刻の十一面千手千眼観
     世音を本尊として安置した。その後山岳仏教の霊場として盛んであっ
     たが、戦乱で衰退し、藩主の援助などで再興されている

   高松市街へ入ると紫雲山の東麓に、高松藩主松平家の別邸だった
     栗林公園があり、街中からは左に大きく横たわる屋島(標高293m)
     が近づいてくる。山上は平らで南北二つの嶺に分かれ、屋島寺は南
     嶺にある。

     仁王門から天暦年間に明達律師が二天像を安置したという二天門
     を入ると、正面が朱塗の本堂、右に大師堂、平家供養の鐘で知られ
     る梵鐘がある。弘法大師ゆかりの獅子の霊巌、源平の古戦場
     「壇ノ浦」などの古跡もある。

   御本尊の真言: おん ばざらたらま きりく そわか



御印84
御姿85
(やぐりじ)

   高野山真言宗 開基/弘法大師    御本尊/聖観世音菩薩

   天長六年(八二九)の創建で、当初は千手観世音の小像を安置し、
     千手院と称していた。
     弘法大師は幼少のころよりこの山に登り、土で仏像などをつくられ
     たが、後に求聞持の法を修されているとき五柄の利剣が虚空より降
     ってきたので五剣山と名づけ、山項からは八ヵ国が見えるので八国寺
     とし、大師が入唐前に植えた八個の焼き栗が、帰国後ことごとく生長
     繁茂していたので八栗寺に改めたという。

   五剣山の名は五つの峰が剣の尖のようにそびえ立っていることから
     つけられたが、元禄十一年(一六九八)の豪雨で西の峰が半分に割
     れ、宝永三年(1706)の地震で東の峰が崩れ、現在は四峰になって
     いる。
     山の中腹の寺までケーブルもある。仁王門を入ると正面が本堂で、
     弘法大師作といわれる本尊聖観世音が安置されている。
     本堂左手前の聖天堂には弘法大師作の歓喜天がまつられ、商売繁
     昌を願う信者で賑わっている。白みかげ石で知られる庵治の町が山
     麓にある。

   御本尊の真言: おん あろりきゃ そわか

御印85
御姿86
(しどじ)

  真言宗  開基/藤原不比等    御本尊/十一面観世音菩薩

  仁王門を入ると左に海女の墓がある。
    謡曲「海士」で知られる伝説によれば、天智天皇のころ、
    藤原不比等が亡父鎌足の供養に奈良興福寺の建立を発願した。
    唐の高宗皇帝の妃であった妹はその菩提にと三つの宝珠を船で送
    ったが、志度の浦で龍神に奪われた。
    兄の不比等はあきらめきれず、姿をかえて志度の浦へ渡り、
    土地の海女と夫婦になり一子・房前をもうける。
    やがて海女は観世音に祈願し、夫とわが子のために命を捨てて龍神
    から宝珠をとりかえす。
    不比等は海辺の近くに海女の墓と小堂をたて「死度道場」と名づけた。
    後に房前は母の追善供養に堂宇を増築し、寺の名を志度寺と改めた
    という。寺伝によれば推古天皇の三十三年に志度の浦に楠の霊木が
    漂着し、園子尼がこの霊木で観世音の尊像を刻みたいと念じたのがそ
    のはじまりという。

  現在の本堂・仁王門は寛文十年(一六七〇)の建立。五重塔は昭和
    五十年、大阪に出て成功した当地出身の竹部二郎氏の建立。

  御本尊の真言: おん まか きゃろにきゃ そわか


御印86
御姿87
(ながおじ)

  天台宗  開基/行基   御本尊/聖観世音菩薩  

  天平十年(七三八)行基菩薩が巡錫の折、道端にある楊柳をもって
    聖観世音を刻み、小堂を建てて尊像を安置したのが寺のはじまりと
    いう。弘法大師は入唐するにあたりご本尊に祈願し、護摩修法された。
    このとき人々に護摩符を授け、それ以来「大会陽福奪い」の行事が
    今日までつづいている。
    大師は唐より帰朝してから大日経を一字一石に書写して入唐の大願
    を成就したことを謝し、万霊の供養塔をたてて修法された。
    この供養塔は現在護摩堂の前にある。後に天長二年(八二五)には
    伽藍が整備され、永仁六年(1298)伏見天皇の勅により開扉法要
    が営まれ、天和元年(一六八一)真言宗から天台宗に改めている。
    住職の説法は人気がある。

  志度をあとに約七㌔の道をたどると長尾の古い町並になる。
    寺は町中にあり、弘安六年と九年の銘のある石の経幢を拝みながら
    仁王門を入ると、広い境内に本堂、右に大師堂、左に護摩堂と常行堂
    が建ち並ぶ。

  御本尊の真言: おん あろりきゃ そわか


御印87
御姿88 (おおくぼじ)

  真言宗大覚寺派  開基/行基    御本尊/薬師如来 

  寺伝によれば元正天皇のころ、行基菩薩がこの地に留錫し、
    弘法大師が唐から帰国してより、現在の奥ノ院の岩窟で求聞持の
    法を修し、大きな窪のかたわらに堂宇を建立して自刻の薬師如来を
    安置した。これが大窪寺のはじまりで、後に女人高野ともいわれ、
    参拝者で賑わったという。。

  そそり立つ胎蔵ヶ峰を背景に本堂があり、礼堂・中殿・奥殿(二重
    多宝塔)からなり、ご本尊の薬師如来は奥殿に安置されている。
    薬壺のかわりにほら貝をもった尊容をされ、このほら貝ですべての厄難
    諸病をふきはらうといわれる。
    打ち終えた遍路は大師堂で感謝の勤行をすませ、決まり事ではありませ
    んが、杖・菅笠を納めてゆく人がいます。。

  御本尊の真言: おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

御印88
 

総本山金剛峯寺

  高野山真言宗   

  弘法大師は唐より帰国後、真言密教を広める根本道場を開くために、
    適当な場所を求めて、各地を 巡錫 ( じゅんしゃく ) しておられました。
    そして、高野山に登られた折に、「山の上とは思われない広い野原
    があり、周囲の山々はまるで蓮の花びらのようにそびえ、これこそ
    真言密教を広めるのに適したところだ」とお喜びになられ、真言密教の
    根本道場に定められました。弘仁七年(816年)、朝廷に上表して、
    嵯峨天皇からも許可を賜り、多勢のお弟子や職人と共に、木を切り、
    山を拓いて、堂塔を建て、伽藍を造られました。

    天承元年(1131年)10月17日には覺鑁(かくばん)上人が鳥羽上皇の
    勅許を得て小伝法院を建立され、その後の文禄2年(1593年)には豊臣
    秀吉公が亡き母堂の菩提を弔うため、 木食応其上人に命じて建立さ
    れた。
   金剛峯寺という名称は、お大師さまが
    『 金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経 ( こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう )
    というお経より名付けられたと伝えられ、東西30間(約60メートル)、
    南北約70メートルの主殿(本坊いい、重要文化財)をはじめ、座主
    居間、奥殿、別殿、新別殿、書院、新書院、経蔵、鐘楼、真然堂、
    護摩堂、阿字観道場、茶室等の建物を備え、寺内(じない)には
    狩野派の襖絵や石庭などが設けられ、境内総坪数48,295坪の広大
    さと優美さを有して います。

    総本山金剛峯寺という場合、高野山全体を指します。
    普通、お寺といえば一つの建造物を思い浮かべ、その敷地内を境内と
    いいますが、高野山は「一山境内地」と称し、高野山の至る所がお寺の
    境内地であり、高野山全体がお寺なのです。
    「では、本堂はどこ?」という疑問がわいてくるでしょう。
    高野山の本堂は、大伽藍にそびえる「金堂」が一山の総本堂になり
    ます。
    高野山の重要行事のほとんどは、この金堂にて執り行われます。

    山内に点在するお寺は、 塔頭寺院 ( たっちゅうじいん ) といいます。
    お大師さまの徳を慕い、高野山全体を大寺(総本山金剛峯寺)に見立
    て、山内に建てられた小院のことです。現在では117ヶ寺が存在し、
    そのうち53ヶ寺は宿坊として、高野山を訪れる参詣者へ宿を提供して
    います。

 

御印高野山金剛峰寺
御姿弘法大師  高野山

高野山の奥の院

  高野山の奥の院は弘法大師が御入定されている聖地です。
    正式には一の橋から参拝します。一の橋から御廟まで約2㎞
    の道のりには、おおよそ20万基を超える諸大名の墓石や、
    祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年を超える杉木立の中に立ち並ん
    でいます。

  燈籠堂は高野山第二世真然大徳によって建立され、治安3年(1023年)
    に藤原道長によって、ほぼ現在に近い大きさになったと伝えられてい
    ます。
    堂内には消えずの火として祈親上人が献じた祈親燈、
    白河上皇が献じた白河燈、祈親上人のすすめで貧しいお照が
    大切な黒髪を切って献じた貧女の一燈、昭和の時代にある
    宮と首相の手によって献じられた昭和燈が燃え続け、
    その他たくさんの方々の願いが込められた燈籠が奉納されています。

  弘法大師御廟は大師信仰の中心聖地であり、現在でも肉身をこの世
    にとどめ、深い禅定に入られており、わたしたちへ救いの手を差し伸
    べていらっしゃるということです。

 

御印高野山奥の院